章敬王后は李氏朝鮮第11代国王・中宗の二人目の王妃です。
中宗には3人の王妃がいました。
即位してわずか7日で廃妃になった端敬王后と、長い間権力を持っていた文定王妃(大妃)の間にはさまれてあまり有名ではありません。
章敬王后自身も若くして24歳で死亡したため、王妃としての在位期間は8年です。しかし息子は12代国王・仁宗になりました。
また章敬王后の兄・尹任は大尹派の中心人物になり、一時は政治の中心にいました。
史実の章敬王后はどんな人物だったのか紹介します。
章敬王后(チャンギョンワンフ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1491年
没年月日:1515年
名前:尹(ユン)
称号:章敬王后(しょうけいおうこう、チャンギョンワンフ)
父:尹汝弼
母:順天府夫人朴氏
叔父:朴元宗(パク・ウォンジョン)
兄:尹任
夫:中宗
子供:孝恵公主、仁宗
彼女が生きた朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に10代燕山君~11代中宗の時代です。
日本では室町時代の人になります。
おいたち
1491年(成宗2年) 。漢城で生まれました。父は尹汝弼(ユン・ヨピル)。文官です。燕山君時代に流刑になり中宗反正に参加しています。
尹氏は何人もの王妃を出している名門一族です。
7歳のとき母が死亡しました。そのため母の姉、昇平府夫人朴氏に育てられました。昇平府夫人朴氏は伯母月山大君(成宗の兄)の夫人です。中宗反正の中心人物、朴元宗(パク・ウォンジョン)は母の兄になります。
1506年。叔父の朴元宗、父の尹汝弼らが燕山君に対してクーデターをおこしました。普城大君が即位しました。
1506年(中宗1年)。中宗の後宮に入り淑儀になります。
端敬王后慎氏が廃妃になりました。
1507年。王妃になりました。中宗を王にするためクーデターをおこした重臣は娘を側室にしていました。それらの功臣の娘をさしおいて尹氏が王妃になれたのは叔父・朴元宗の働きがおおきかったようです。クーデターで大きな働きをして朝廷で最も力を持っていたのが朴元宗だったからです。
1511年。長女・孝恵公主を出産。
兄の尹任が武官になりました。後に尹任は大尹派の中心人物になります。
1515年。長男・峼(後の仁宗)を出産。
出産後66日で死亡。24歳でした。
章敬王后が死亡した後、朴祥たちが廃妃慎氏を王妃に戻すように訴えを起こすなど混乱しました。
遠戚の文定王后が次の王妃になりました。章敬王后の次に王妃になった文定王后とその兄弟、尹元老(ユン・ウォンロン)・尹元衡(ユン・ウョニョン)は遠戚になります。
文定王后に息子が生まれると朝鮮朝廷は二つの大きな派閥に別れます。
息子の李峼(イ・ホ)を支持する兄・尹任たち大尹派。
文定王妃の息子・李峘(イ・ファン)を支持する尹元老・尹元衡たち小尹派です。
中宗の次の王には李峼(イ・ホ:仁宗)がなりました。しかし短命に終わり李峘(イ・ファン:明宗)が次の王になります。
中宗~明宗の期間に大尹派と小尹派の争いが繰り広げられます。
テレビドラマ
趙光祖 1994 KBS2 演:パク・チュミ
女人天下 2001 SBS 演:オ・アラン
七日の王妃 2017 KBS 演:コ・ボギョル
七日の王妃では「ユン・ミョンヘ」という名前で登場しました。王位費になる前のいきさつは作り話ですが、晋城大君イ・ヨクに関わる人物として登場します。
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