廬江郡王 李瑗(り・えん)は唐の武将。
高祖 李淵に仕え。皇太子 李建成とも親しくしていました。
ところが玄武門の変で李建成が李世民に殺害され。李瑗には都から呼び出しがかかります。
慌てた李瑗は王君廓と相談して反乱を決意しますが、王君廓に裏切られ命を落としました。
史実の李瑗はどんな人物だったのか紹介します。
廬江郡王 李瑗の史実
いつの時代の人?
生年月日:586年
没年月日:626年7月15日
姓 :李(り)氏
名称:瑗(えん)
国:唐
地位:幽州大都督
称号: 盧江郡王
父:李悊(り・てつ)
母:
日本では飛鳥時代になります。
おいたち
李瑗(り・えん)は隋の時代。586年に誕生。
父は順陽郡公 李悊(り・てつ)。文帝 楊堅(よう・けん)の信頼の厚い武将でした。
李悊は後に唐を建国する 李淵(り・えん)の従兄弟です。
李瑗は 黄台公 の爵位を与えられました。
唐の時代
武徳元年(618年)。高祖 李淵が唐を建国。
李瑗は高祖 李淵から刑部侍郎に任命されました。
李瑗は 信州総管になりました。「廬江王」の爵位を与えられました。
武徳4年(621年)。李瑗は河間王 李孝恭、行軍総管 李靖、黔州刺史 田世康と合同で蕭銑を攻撃しましたが、功績をあげることはできませんでした。
武徳9年(626年)。幽州大都督になりました。
高祖 李淵は 李瑗は臆病で無能で将帥としての才能にかけるのではないかと心配していたので、右領軍将軍の王君廓を補佐につけました。王君廓はかつて強盗をしていたこともありましたが、勇猛果敢で頭が良かったので李瑗は彼を頼りました。李瑗は王君廓と親戚になろうとさえしました。
皇太子 李建成と親しくする
李瑗は皇帝一家の親戚です。皇族の扱いを受けていました。
李瑗は10万の兵を持っていたので、様々な勢力が彼を取り込もうとしていましたが。李瑗が親しくしていたのは皇太子 李建成でした。
李瑗の反乱と最期
都の政変を知り挙兵を決意
ところが秦王 李世民が反乱を起こして李建成を殺害してしまいます(玄武門の変)。
李建成が死んだ後、高祖は崔敦礼を使者として派遣。李瑗を都に呼び寄せようとしました。
都に来いという勅命を受けた李瑗は、長安に行けば命はないと不安になって王君廓と相談しました。
王君廓は李瑗に
「都で起きた政変の結末はまだ分かりません。大王(李瑗のこと)は皇族であり、辺境を守る任務を帯び十万の兵をもっています。どうして使者の一人が来るだけで、都に呼び寄せられることができますか?太子 李建成と斉王 李元吉はすでに亡くなっています。大王はこのような状況で、命を保つことができるでしょうか?」と言うと王君廓は李瑗と一緒に泣き出しました。
李瑗は王君廓の言葉を信じて挙兵を決意しました。
李瑗は使者の崔敦礼を捕らえ、都の機密情報を聞き出そうとしますが、崔敦礼は答えません。李瑗は崔敦礼を監禁しました。李瑗は配下の集め、燕州刺史の王詵を薊州に呼び寄せて、挙兵の計画を練りました。
王君廓の裏切り
でも兵曹参軍の王利涉は迂闊に挙兵することに反対。山東には職を失った者たちが多くいるのでまずは彼らを味方にして集め、さらに王詵を突厥に派遣して援軍を求めるように言いました。
李瑗は彼の助言を受け入れ、軍のすべてを王君廓に指揮させることにしました。
でも王利涉は王君廓を信用しておらず、王詵に指揮させるように言いました。でも李瑗は決断することができませんでした。
王君廓はその話を知ると、王詵のもとを訪ねて殺害。
彼の首を持って「李瑗と王詵は共謀して反乱を起こし、皇帝の使者を囚禁し、兵を集めている。今、王詵は殺され、李瑗は一人残されました。彼はもはや何もできません。皆さんは李瑗と一緒に一族皆で殺されるのを望みますか?それとも私についてきて富貴を得たいですか?」というと。将兵たちは王君廓に従いました。
そこで、王君廓は崔敦礼を釈放。兵を率いて李瑗のもとに向かいました。
李瑗は王君廓が謀反を起こしたことを知り、慌てて鎧を着て迎え撃とうとしましたが。王君廓が到着。
王君廓は李瑗の部下に「李瑗は朝廷に背いている。彼とともに身を滅ぼそうというのか?」と言うと、兵たちは武器を捨てて逃げました。李瑗はひとり取り残されました。
李瑗は王君廓を罵倒しましたが、王君廓に捕らえられ絞殺されました。享年41歳。
李瑗の首は王君廓によって都の李世民のもとに送られました。
李瑗は李世民によって死後、庶人に格下げになってしまいます。
テレビドラマ
長歌行 2021年、中国 演:程武
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