陸炳(りく・へい)は明朝時代の錦衣衛長官。
12代皇帝・嘉靖帝からの信頼が非常に大きかった人物です。
錦衣衛は明朝の皇帝直属の秘密警察。臣下や国民を調査、逮捕する警察兼軍隊でした。
陸炳の母が嘉靖帝だったのでもともと嘉靖帝とは親しかったのですが。火事になった宮殿から嘉靖帝を救い出したことで更に信頼を得ました。
巌世蕃、楊博とともに嘉靖帝時代の三人の天才と言われました。
京劇や物語などでは「正義の見方」として登場することの多い人物です。
史実の陸炳(りく・へい)はどんな人物だったのか紹介します。
陸炳の史実
いつの時代の人?
生年月日:1510年
没年月日:1560年
姓 :陸(りく)
名称:炳(へい)
字:文孚
国:明
地位:錦衣衛都指揮使
称号:忠誠伯
父:陸松
母:范氏
妻:吴氏
子供:4男5女
陸經、陸紳、陸繹、陸彩
次女は巌世蕃の子・巌紹庭と結婚。
日本では戦国時代になります。
おいたち
正徳5年10月15日(1510年11月16日)
浙江嘉興府(現在の中国浙江省嘉興市)で生まれました。
父は錦衣衛 都指揮使(副長官)の陸松(りく・しょう)。
母は嘉靖帝・朱厚熜の乳母でした。
つまり陸炳と嘉慶帝は乳兄弟です。
幼いころの陸炳は母に連れられて王府(嘉靖帝の父は興王・朱祐杬)に出入りしていました。
陸炳は背が高く屈強な体をもち勇猛で鶴のようにゆったりと歩いていました。
嘉靖帝が即位後。都に出てきて10代のころは錦衣衛の従者をしていました。 都指揮使(長官)の王佐は陸炳を高く評価して様々な教えを受けました。裁判記録や事件簿の書き方、公文書の渡し方などを自ら指導。王佐は「錦衣衛のトップは公文書の書き方に精通していなければならない」と教えました。
錦衣衛になる
嘉靖11年(1532年)。武官になりました。その後、錦衣衛の 副千戸(従五品)になりました。
嘉靖15年(1536年)。父の陸松が死亡。指揮僉事(正四品)になると、その後、南鎮撫事を担当しました。
嘉靖17年(1538年)。嘉慶帝が歴代皇帝の陵墓を参拝したとき。陸炳に身辺警護を行わせて錦衣衛を指揮させました。
その年の冬。指揮使(司令官・正三品)になりました。
嘉靖18年(1539年)。嘉慶帝の南巡に同行して渭水(現在の河南省智県)に行きました。ところが夜になって行宮(行幸先で泊まる仮の宮殿)が火事になってしまいます。
陸炳は燃える宮殿から嘉慶帝を運び出して救出しました。この事件で陸炳は嘉靖帝から大きな信頼を得ました。
嘉靖21年(1542年)。宮女たちが嘉慶帝を暗殺しようとした事件がありました(壬寅宮変)。嘉慶帝は首を閉められ意識を失いましたが命は無事でした。陸炳は現場に駆けつけ犯人を逮捕しました。意識を取り戻した嘉慶帝はその報告を聞いて喜びました。
嘉靖23年(1544年)。錦衣衛の長官代理になりました。
嘉靖24年(1545年)。正式に錦衣衛事(長官)に昇進しました。
陸炳は急激に出世しました。そのせいで陸炳と同じ地位にいるのは彼の親世代の人ばかり。陸炳は目立つ存在になります。陸炳は表向きは謙虚な態度をとっていましたが、自分を侮辱する人たちを排除するため様々な策略をつかいました。
自分の地位を安泰にするため、重臣でトップにいる夏言(か・げん)、巌嵩(げん・すう)とは親しくしました。
有力な臣下と婚姻関係を結びました。
次女を巌世蕃の子・巌紹庭と、三女を徐階の三男・徐瑛と結婚させました。
夏言に怨みをもち巌嵩に味方する
あるとき陸炳は軍の指揮官を撲殺してしまい。御史(役人を監視する人)から訴えられたことがありました。でも嘉靖帝は陸炳を罰しません。その後も御史に訴えられ、夏言は陸炳を逮捕しようとします。
不安になった陸炳は三千金を持って夏言の所に行き、土下座して泣いて謝罪しました。このときは許されたようですが、陸炳は夏言に深い怨みを持つようになります。
その後、巌嵩が夏言をおとしいれようとしたとき。陸炳は巌嵩に味方しました。夏言は処刑に追い込まれてしまいます。
その後も陸炳と巌嵩は親しくしました。
嘉靖30年(1551年),左都督になりました。
「裏切り者」仇鸞を訴える
このころ北の国境を守る将軍・仇鸞(きゅう・らん)が嘉靖帝から信頼を得ていました。
仇鸞はモンゴルが略奪するのは利益が欲しいからだ。というので市を開いてモンゴルと貿易しようと主張した人。
でも嘉靖帝は「朝貢しか認めない」という方針。巌嵩も仇鸞と対立するようになります。
嘉靖31年(1552年)。仇鸞が重病になったのを機会に陸炳は「仇鸞がモンゴルと密貿易をしている」と訴えました。
激怒した嘉靖帝は仇鸞から地位を剥奪。仇鸞が失意のまま死亡すると、死の直後には棺を暴いて遺体を滅茶苦茶にしました。
仇鸞は争いを避けるためには自由な商業が重要だと考えました。でも「モンゴルと通じた裏切り者」にされました。それに対して「裏切り者」を暴いた陸炳はますます嘉靖帝の信頼を得ます。
「太子太保」兼「太子太傅」(皇太子のお守役)になりました。
晩年の陸炳
嘉靖32年(1553年)。北京の外壁工事の監督を命じられました。このとき「建物や門の建設、労働者の確保。食料の用意。厳しい賞罰、薬の提供」などの提言を行いました。
嘉靖33年(1554年)。陸炳は嘉靖帝が暮らす西苑に赴任。巌嵩や朱希忠松とともに嘉靖帝に仕えて道教の修行に励みました。嘉靖帝の信頼を得るためには道教を信じるフリをしないなといけないのです。
嘉靖34年(1555年)12月。御史の張巽が嘉靖帝が行っている道教の修行について批判。嘉靖帝は激怒して張巽を逮捕するよう命令しました。陸炳は逮捕せずに逃しました。嘉靖帝は張巽を逃した陸炳を叱りました。でも厳罰をあたえようとはせず陸炳や朱希孝たち錦衣衛に三ヶ月の減給にしました。
でも張巽は最終的には廷杖になってしまいます。
嘉靖36年(1557年)。宦官の李彬(り・びん)が工事現場から資材を盗み、皇室の墓と同じ仕様の墓を造った、として訴えました。
李彬と配下の者三人が死刑になりました。李彬の財産を没収すると銀40万両以上、金・真珠・財宝が無数に見つかりました。
嘉靖帝は太保と少傅を兼任させ。錦衣衛の仕事は続けさせました。
嘉靖39年12月11日(1560年12月27日)。陸炳は執務中に急逝ししました。享年51.
嘉靖帝は取り乱して陸炳の肖像画を見て泣きました。自らの手で詔書を書いて「国への貢献、裏切り者の摘発、忠誠」を称えました。
陸炳には「忠誠伯」の称号が与えられました。
嘉靖帝のもとで錦衣衛が活躍した時代
普通、錦衣衛は宦官組織の東廠の下におかれています。
ところが嘉慶帝時代の時代は錦衣衛の権威は東廠より上でした。
嘉靖帝が直属組織の錦衣衛を頼りにしていたこと。陸炳が嘉靖帝から信頼されていたこと。前の皇帝時代に宦官が横暴になったのでその反省で宦官の力を減らしたこと。等の理由で錦衣衛は東廠より高い権威を持っていました。
嘉靖帝は自分では政治をせずに大臣にまかせていました。でも問題があるとわかれば厳しく罰しました。嘉靖帝の目や耳になって支えたのが錦衣衛だったかもしれません。
テレビドラマ
花様衛士 2019年、中国 演:劉威 役名:陸廷
主人公の陸繹の父・陸廷は陸炳をモデルにしています。夏然(夏言がモデル)の死に関わっているのも史実と同じ。息子の陸繹は歴史上の名前と同じなのに。陸廷は名前が変えられています。
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