[花様衛士]夏然のモデル 夏言は 出世して傲慢になった明朝の宰相

明2 明・宋

夏言(か げん)は明朝時代の政治家。

12代 皇帝 嘉靖帝に仕えました。

即位したばかりの嘉靖帝に仕え、嘉靖時代の初期の改革を支えた有能な政治家でした。

中国ドラマ「花様衛士」のヒロイン袁今夏(えん・きんか)の祖父「夏然」のモデルになりました。

嘉靖帝に気に入られた夏言は急激に出世。大臣のトップの地位・内閣首輔(宰相)になります。

ところが夏言はいばり散らすタイプの政治家で、周囲の者とも対立しました。やがて嘉靖帝からも信用を失っていきます。

そして嘉靖帝に取り入るのに成功した巌嵩に陥れられて失脚。処刑されます。

史実の夏言(か げん)はどんな人物だったのか紹介します。

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夏言(か げん)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1482年
没年月日:1548年。

姓 :夏(か)
名称:言(げん)

国:明
地位:内閣首輔

父:夏鼎
母:匡氏
妻:徐氏

子供:五男一女
男子はすべて早世。

日本では戦国時代になります。

成化18年(1482年)に生まれました。

父は臨清州知(知事)の夏鼎。

夏言は頭がよく文学の才能もありました。夏鼎は子供の夏言に期待していました。

弘治13年(1500年)。夏言は科挙に挑戦して落選。

正徳元年(1506年)。臨清州知州だった父が死亡。喪に服しました。

正徳5年(1510年)。科挙を受けるため北京に行きましたが不合格。南京国子監(学校)で勉強しました。

正徳12年(1517年)。科挙に合格。
行人になって各地を視察しました。

正徳15年(1520年)。夏言は兵科給事中になりました。

嘉靖帝時代

嘉靖元年(1522年)。夏言はいくつかの改革案を提出しました。

嘉靖帝の許可を得て3200人の宦官を追放しました。といっても嘉靖帝は15歳だったので実際は大臣たちが中心になって行いました。

先代の正徳帝は宦官を増やして優遇したので、宦官が権力をもって賄賂をとり政治が腐敗していました。そこで皇帝が交代したのをきっかけに宦官から力を奪って数を減らそうとしたのです。

嘉靖帝が即位した直後は様々な改革が行われました。夏言は改革にかかわります。

嘉靖二年(1523年)。兵科都給事中になりました。

嘉靖3年(1524年)。母が死亡。喪に服するため辞職しました。

儒教世界では親が死亡すると仕事を辞めて3年間喪に服さなければいけません。庶民は3年も仕事を休んだら行きていけないので、もちろんこんなことをしているのは科挙に受かった金持ちだけです。

嘉靖7年(1527年)。喪が開けて仕事に復帰。

嘉靖帝に気に入られる

嘉靖9年(1530年)。嘉靖帝は天と地の神を祀る儀式を分けようとしました。ところが大臣たちは反対。このとき夏言は嘉靖帝に賛成しました。味方を得た夏言は、反対する重臣を投獄。

嘉靖帝は夏言に天壇(天の神を祀る施設)と地壇(地の神を祀る施設)の建設を命令します。

この件で夏言は嘉靖帝に気に入られました。

嘉靖10年(1531年)3月に翰林学士になりました。

ところが夏言の出世に警戒感をもった張璁が夏言を無実の罪で陥れようとしました。ところが張璁が黒幕だったことがばれてしまい張璁は辞任しました。その後も夏言は嘉靖帝の信頼を得て出世します。

9月。禮部尚書になりました。

夏言は礼儀正しかったので他の大臣たちからの人気もありました。重臣たちの中心になって当時、朝廷で権力をもっていた張璁と張り合っていました。

嘉靖帝は非常に道教に凝っていました。夏言は道教で使う「青詞」(祭文を書いた紙)を上手に作ることができました。嘉靖帝は夏言をますます気に入って贔屓しました。

夏言は道教の信者ではありませんが、知識を使って祭文を作ることができたのです。

嘉靖15年(1536年)。内閣大学士になりました。

内閣首輔(宰相)になる

嘉靖17年(1538年)。内閣首輔(宰相)になります。重臣たちのトップに立ちました。

巌嵩も嘉靖帝に気に入られ出世。夏言と巌嵩は競うようになります。

嘉靖18年(1539年)正月。夏言は道教の神・皇天上帝を祀りました。上柱国の称号を得ました。「上柱国」は古代に使われた古い称号です。夏言が復活させました。明時代よりあとには夏言しかこの称号を使っていません。

このころより、夏言と巌嵩の意見が対立。嘉靖帝は巌嵩の意見を採用する事が多く。夏言はしだいに嘉靖帝から怒られる機会が増えます。

嘉靖帝の行幸に付いていったときも職務怠慢を理由に注意されて一時、謹慎ていましたが。復帰を許されたときに「私は混じりけのない心の唯一の臣下であり、それゆえに皆から恨まれる」と書いたものを嘉靖帝に送ってまた怒られる。といったこともしています。自分の誠意をアピールしたかったのかもしれませんが、自分が正しくて他人が間違っている。という考えはあったかもしれません。

嘉靖19年(1540年)。このころ夏言は重臣の郭勛(かくくん)と激しく対立。夏言たちは郭勛を弾劾。すると怒った嘉靖帝は郭勛を錦衣獄に投獄。あとで嘉靖帝が思い直して郭勛を釈放するよう言いましたが。夏言は「釈放する必要はない」と嘘の命令を伝えました。嘉靖20年(1541年)冬に郭勛は獄中で死亡してしまいます。

さらに夏言は宦官の高忠と仲がよく。夏言が高忠に「皇帝の命令は伝える必要はない」と漏らしているのを嘉靖帝が知ってしまいます。

さらに夏言は無許可の輿を使うこともありました。夏言は嘉靖帝が宮殿にいないときは朝議に出席せず自分の家で仕事をしていました。

嘉靖21年(1542年)。こういったことがあり。嘉靖帝が夏言に不信感をもっっていたところ。夏言の地位を狙っている巌嵩からそそのかされた嘉靖帝は夏言を内閣首輔から外しました。厳嵩が内閣首輔になりました。

夏言はしばらく高い地位にいたので贅沢な生活をして、幅広い交流関係がありましたが。

夏言が外されると周囲の人々の態度は冷たくなりました。それが不満な夏言は元旦や嘉靖帝の誕生日には自分を「草土臣」と自虐的に表現して嘉靖帝に手紙を出していました。

嘉靖帝は夏言が気の毒に思い。夏言に「大学士(重臣のポストのひとつ内閣の一員)」の地位を与えます。

再び内閣首輔になって厳嵩と対立

嘉靖25年(1546年)。夏言の代わりに内閣首輔になった厳嵩も強欲なところがありました。不安に思った嘉靖帝はまた夏言を内閣に呼び戻してました。

夏言は再び内閣首輔に任命されました。でもそれまで内閣首輔だった厳嵩とはうまくいきません。

夏言は厳嵩と相談せずに独断で決めたり、厳嵩が昇進・任命した人を解雇・追放したりしました。厳嵩は表立って抵抗することは無く表面上はおとなしくしていましが、内心では恨んでいたようです。

元々、夏言と厳嵩の仲は良かったです。厳嵩が年上ですが、夏言は出世が早かったので、厳嵩に対して偉そうな態度を取ることが多かったようです。儒教社会でそういうことをしていると人から恨まれます。

当時、厳嵩は多額の賄賂をとり役人たちから憎まれていました。そこで夏言は役人たちから支持されていました。ところが夏言は不当な理由で大臣たちを解雇、自分の政敵を粛清しはじめたので夏言も人々から恐れられるようになりました。

夏言の最期

このころモンゴルが万里の長城を越えて明の領内に侵入。黄河周辺の河套(かとう)地域がモンゴルに占領されてしまいます。陝西省の総督・曾銑は軍を派遣して河套を奪回すべきと申請。夏言は曾銑が頼りになると考え、曾銑を河套に派遣する軍の司令に推薦。嘉靖帝は認めました。

曾銑はモンゴルと戦って戦闘には勝ったのの河套を奪回することはできませんでした。

嘉靖26年(1547年)。曾銑は2度めの派遣を申請。ところが河套を奪回するためには遠征にかかる費用や必要な兵や武器の数も膨大な量になってしまうことがわかります。嘉靖帝は派遣は消極的になり。朝廷内でも議論になります。

夏言は派遣を主張。厳嵩は派遣に反対しました。夏言は周囲の宦官や役人に高圧的だったのに対して、厳嵩はものごしやわらかで賄賂も渡していました。夏言に味方するものは減っていきました。

さらに厳嵩は「夏言が陝西・四川の異民族から賄賂を受け取た」と嘘の情を流して訴えました。

嘉靖帝も河套の奪回はあきらめ。奪回失敗の責任を厳嵩に押し付けました。

夏言は嘉靖帝の命令で逮捕され。拷問にかけられ罪の「自白」をさせられて処刑されした。

夏言の息子や孫は全て若くして死亡していたので子孫はいません。少なくとも男系の血筋は途絶えとされます。しかし娘の子孫はいたとも言われますがよく分かっていません。

隆慶帝が即位すると、夏言の名誉は回復します。

偉くなると傲慢になる政治家

夏言は若い頃は改革に熱心な優秀な政治家だでした。ところが政治のトップんたつと傲慢になりました。融通の効かないところがあり、嘉靖帝や周囲の重臣たちともトラブルを引き起こしています。

死罪の直接の原因を作ったのは厳嵩のでっちあげた「嘘の罪」ですが。周囲に敵を作っていた夏言の態度にも問題があるようです。

TVドラマ

花様衛士、2019年、中国 演:陽光 役名:夏然
 ヒロインの袁今夏の祖父。夏然のモデルになったのが夏言。ドラマの夏然も厳嵩に陥れられますが。夏然は良い政治家です。

 

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