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曹王 李明 唐 太宗の末息子は武則天の野心の犠牲になった?

唐朝 5.1 隋唐の皇帝・皇子

曹王 李明(り・めい)は唐時代の皇族。

2代皇帝 太宗 李世民の十四男です。太宗の息子の中では一番年下。

太宗時代には皇太子の座を巡って争いが起こるのですが。曹王 李明は一番年下ということもあり後継者争いには関わってませんでした。

3代皇帝になった 高宗 李治との関係は悪くなかったようです。

ところが高宗時代の晩年に皇太子 李賢(り・けん)の謀反疑惑に巻き込まれ地方に左遷。現地で自害させられてしまいます。

史実の曹王 李明 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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曹王 李明の史実

いつの時代の人?

生年月日:640年代
没年月日:682年

名称:李明
称号:曹王
父:太宗 李世民
母:楊氏(巣王妃)

子供:不明

彼は唐の2代太宗~3代高宗の時代の人物です。

日本では飛鳥時代になります。

おいたち

 

父は唐の第2代皇帝太宗 李世民。

母は楊氏。
巣王・李元吉の妻だったので巣王妃ともよばれます。

楊氏の家系は隋を建国した楊堅の同族。隋朝時代は皇族扱いされていた家柄です。
楊氏は当時、隋の重臣だった李淵の四男・李元吉の妻になりました。

つまり李世民の義理の妹になりました。

その後、隋が滅びて唐が建国。

626年。玄武門の変で 秦王 李世民は皇太子 李建と斉王 李元吉を殺害。その後、李世民は皇帝(太宗)になりました。このとき楊氏がどうなったかはよくわかりませんが、太宗の後宮に入れられたと考えられます。

当時、謀反人の妻子が後宮に入れられることはありました。

楊氏が正式に側室に任命されたという記録はなく。太宗の妾として扱われていたようです。

時期はわかりませんが、太宗と楊氏の間に李明が誕生。

すぐ上の兄の趙王 李福は634年生まれなので李明の生年はどんなに早くても634年より後です。太宗李世民にとっては一番下の息子です。

636年。長孫皇后が死去。「新唐書」によれば。太宗は楊氏を皇后にしようとしましたが、宰相の魏徵に反対されて諦めました。

貞観21年(647年)。李明は「曹王」に任命されました。

貞観23年(649年)。領地が800戸。与えられました。その後、1000戸に追加されました。

この年。父・太宗が死去。高宗が即位しました。

高宗の時代

高宗の即位後、有力な皇族が粛清された事がありましたが。李明は高宗としたしかったのか。驚異と思われてなかったのか。李明は粛清されませんでした。

母の元夫の家を継ぐ

太宗・李世民の弟・李元吉は玄武門の変で殺害され。李元吉の子も処刑されて家が途絶えていました。

そこで高宗は李元吉を皇族に戻し、李明に李元吉の家を継がせました。

巣王・李元吉を継がせるために高宗が選んだのが李明でした。

というのも李明の母・楊氏は、巣王・李元吉の妻だったのです。楊氏は李元吉の死後、後宮に入れられ太宗の妾にされました。そうして生まれたのが李明です。

李明は母の元夫の家を継ぐことになりました。

李元吉を処刑したのは高宗の父・太宗です。高宗は父の意思に反するのですけど。李元吉が気の毒だと思ったのでしょう。

李明にとって李元吉は叔父(父の弟)で母の元夫。

さらに李明の母・楊氏は武皇后(武則天)の母・楊氏の親戚です。武皇后の働きかけもあったかもしれません。

複雑な血縁関係です。

 

顯慶4年(659年)。李明は 梁州都督になりました。

その後、虢州、蔡州、蘇州刺史も務めました。

皇太子の謀反疑惑で左遷

武皇后から嫌われる皇太子 李賢

調露2年(680年)。皇太子 李賢(り・けん)が廃される事件が起こります。

李賢は高宗 李治と武皇后(武則天)の息子。学問好きで学者を集めて「後漢書」の注釈本を作りました。人柄も良かった人物らしいです。

ところが「皇太子 李賢は高宗 と韓国夫人の子供だ」という噂がでてしまいます。韓国夫人・武順は武皇后の妹です。韓国夫人は夫の死後、宮廷に出入りして高宗と親しくなりました。それで生まれたのが李賢と噂がたってしまったのです。

李賢が自分の子なのは武皇后が一番良く知っているはずです。

武皇后はすでに最初の息子で皇太子だった李弘を殺していました。2番めの息子も言う通りにならないと分かると廃そうとしました。

武皇后は3番めの息子・栄王 李顕を皇太子にしようと考えます。李顕は兄たちと違い人に流されやすいタイプです。

武皇后は李賢に対して「皇太子の座を明け渡すように」迫りますが。李賢は譲りませんでした。

やがて李賢の馬屋から数百の鎧が「発見」され。李賢は謀反を企てた罪で皇太子を廃され追放、流刑先で処刑されてしまいます。

李賢にとってみれば、父は病気ですから待っていれば皇帝になれます。焦って謀反を起こす必要はありません。早く李賢を廃したい武后側の策略の可能性が高いです。

皇太子の巻き添えで李明は流罪

李明はその皇太子・李賢と親しくしていました。

皇太子・李賢の謀反疑惑に連座して李明は「零陵王」に降格。黔州に流罪になりました。

李明が具体的に李賢に協力して謀反を企んだのかどうかはわかりません。冤罪の可能性が高いです。武則天は自分が権力を握るために邪魔になりそうな李氏の皇族を排除したかったのかもしれません。

 

流刑先で自害

永隆年間(680-681年)。黔州都督の謝祐によって自害に追い込まれます。自害といっても事実上の処刑です。

高宗は李明の死を嘆き悲しんで黔州官吏を全員罷免しました。

歴史書には謝祐が自害に追い込んだと書かれています。でも役人の判断で勝手に皇族を処刑しら大変なことになります。命令を出したのは武皇后(武則天)だったのでしょう。

高宗も武皇后の命令だと知っていても、すでに病気が進んで武皇后にかなり政治の権限を渡していたので武皇后の責任追求はできません。直接手を下した役人を処刑するしかありません。

それか。武皇后は自分で皇子の処刑命令を出しておいて役人に責任をなすりつけ。高宗に役人を処刑するように言ったのかもしれません。

李賢のときは武皇后が李賢を流刑にする→役人に命令して李賢を自害させる→李賢を自害させた役人を処刑。という手順でした。李明もその可能性が高いです。

武皇后(武則天)は人を使うのが上手い優れた政治家ですが、役目が終わると切り捨ててしまいます。現代でいえばテレビで話題のカリスマ経営者だけど会社の中はブラック企業。というタイプです。

皇子を始末するために役人が犠牲になってしまったのです。

李明も武則天の犠牲になった一人です。

710年。李明の棺は長安に運ばれ昭陵に埋葬されました。

テレビドラマ

風起花抄 2021年、中国 演:張晚意
 史実と違いこのドラマの李明は自分が李治の代わりに皇太子になろうと陰謀をたくらむ野心家として描かれています。それを阻止するのがヒロインや武則天たち。

史実では李明は太宗の時代には目立つようなことはしてません。謀反疑惑に巻き込まれるのは高宗の晩年です。大幅に脚色されています。

史実では武則天が野心家で李明がその犠牲になっているのですが。ドラマでは李明が野心家で武則天が止める側というのも大きな違いです。

 

 

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