臨海公主(りんかいこうしゅ)は唐の時代の皇族。
初代皇帝 高祖 李淵(りえん)の十六女です。
臨海公主は名門の裴律師(はい・りつし)と結婚しました。
裴律師の父・裴寂(はい・せき)は李淵と親しく。唐の建国に貢献。宰相も務めました。
史実の臨海公主はどんな人物だったのか紹介します。
の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:不明
姓 :李氏
名称:不明
国:唐
地位:公主
称号:臨海公主
父:唐高祖李淵
母:不明
夫:裴律師(はい・りつし)
子供:不明
彼女は唐の初代皇帝・李淵の娘です
日本では飛鳥時代になります。
おいたち
父は唐の初代皇帝 高祖 李淵(り・えん)
母は不明。
臨海公主は十六女でした。
生年は不明。
十二女の淮南公主が622年生まれなので臨海公主の生年は622年より後になります。
公主には領地が与えられ、そこから収入を得ています。
臨海公主は「臨海郡(現在の中国浙江省台州市)」という場所に領地が与えられていたので「臨海公主」と言います。結婚前は都の後宮。結婚後は夫の領地で暮らすので臨海公主が臨海郡で暮らすことはありません。役人を派遣して税の徴収を行います。
臨海公主については。母親生年、没年の記録もありません。高祖李淵の十六女で、裴律師と結婚したことしか分かっていません。
唐の時代の公主は他の中華王朝に比べると地位が高く。待遇もよかったですし。臣下に対する発言力も大きかったようです。
皇帝の娘、妹ということで大きな顔をしていたのでしょうね。
唐の皇帝の娘と結婚するとどれだけ大変かは昇平公主のエピソードをみればわかります。
当時の臣下の感想としては。出世や家の繁栄につながるのでありがたいけれど。公主はわがままのであまり嬉しくない。というのが一般的な感想だったようです。臨海公主もそうだったのかはわかりませんが。その可能性はあります。
河東裴氏の裴律師と結婚
時期は不明ですが。裴律師(はい・りつし)と結婚しました。
高祖 李淵、太祖 李世民は有力な臣下には積極的に娘を嫁がせました。王朝の建国時はまだ李一族の権力も安定していません。いつ反乱を起こされるかわからないので政略結婚で有力な臣下を仲間にして忠誠心を高めようとしたのです。
裴律師は唐で宰相を務めた裴寂(はい・せき)の次男。
裴寂は高祖 李淵と親しく、唐の建国にも貢献しています。
裴寂は河東裴氏の一族。
河東裴氏はいくつかの家系に分かれていますが。裴寂・裴律師の家はその中でも数の多い「西眷裴」に所属します。
ちなみに武則天時代に活躍した裴行倹は「中眷裴」という分家。西眷裴からさらに分かれた一族になります。
裴律師は「河東郡公」の爵位を与えられていました。当時の河東裴氏の中では特に地位が高い人物です。
裴律師には裴承光と裴承禄の二人の息子がいました。この二人が臨海公主が生んだ子なのかはわかりません。
裴承光は武則天の時代に酷吏(密告制度を利用して人々を取り締まる役人、武則天が反対派の粛清に利用しました)に捕らえられて処刑されました。
裴承禄が河東郡公の地位を継いでいます。
テレビドラマ
風起花抄 2021年、中国 演:陳雨菲 役名:臨海大長公主
皇帝の妹なので大長公主と呼ばれています。
唐高祖 李淵の十六女。高宗 李治の叔母。河東裴公府の奥様。河東裴氏の中でも特に地位の高い家を仕切る奥様。
裴行倹の最初の妻・陸琪の死の原因にもなりました。
裴行倹は河東裴氏の中でも中眷裴という一族なので臨海公主の嫁いだ西眷裴の河東郡公とは300年前の普の時代まで遡らないと繋がりません。
日本だと300年も経てば他人です。いくら同族意識の強い中国でもどの程度付き合いがあったかは不明です。
ドラマでは同じ河東裴氏の一族ということで親戚のように描いているようです。
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