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華陽公主・病で若くして亡くなった唐代宗の最愛の娘

とう 5.3隋唐の公主

華陽公主(かようこうしゅ)は8世紀の唐の皇族。

11代皇帝 代宗の娘です。
母は貞懿皇后 独孤氏。
独孤氏は生前は貴妃だったので皇后になったのは死後です。

唐の代宗の娘といえば、昇平公主 が有名です。昇平公主 の夫婦喧嘩は京劇の演目にもなっています。

でも代宗に一番可愛がられた娘は華陽公主でした。

ところが華陽公主は若くして病にかかり亡くなってしまいます。

代宗は大変悲しんだといいます。

史実の華陽公主はどんな人物だったのか紹介します。

 

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華陽公主の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:774年。

姓:李
名:不明
称号:華陽公主(かようこうしゅ)
父:代宗
母:貞懿皇后 独孤氏
同母兄:李迥(韓王)

子供:なし

彼女は11代皇帝 代宗の娘

日本では奈良時代になります。

おいたち

 

生年は不明。

758年に兄・李迥が誕生しているので華陽公主の誕生はその後でしょう。

父は当時 皇太子だった李俶(後の代宗)

母は皇太子 李俶の側室だった独孤氏(後の貞懿皇后)
母の実家、京兆独孤氏は独孤伽羅の独孤家とは違います。祖先は「李姓」を名乗っていましたが独孤信(独孤伽羅の父)の家来になって独孤姓をもらいました。独孤信と同じ鮮卑系(騎馬遊牧民族)の一族です。

762年。父の李俶が皇帝(代宗)に即位しました。

768年。母の独孤氏が貴妃になりました。代宗には皇后がいないので後宮で一番上の地位です。

漢民族の王朝は皇后が亡くなるとすぐに別の皇后を決めます。漢民族は形にこだわるので皇后を大事にしてなくてもとりあえず形だけでもおいておきます。

ところが唐は皇后のいない期間が長く、約300年の歴史で73年しか皇后がいません。

遊牧民の王朝では皇后に適切な人がいなければ無理に決めなくていい。という雰囲気があります。唐の支配者層にもかなり遊牧民の血筋や習慣が入っています。

また遊牧民の国は皇后(ハトゥン)やその一族の影響力が強く、皇帝(ハーン)が病気などで政治をできなかったり、幼かったりすると皇后やその一族が代役を務めます。武則天が権力をもてたのもそんな遊牧民系王朝の性質を利用したからです。

なので唐の後半になると皇帝の独裁的な地位が脅かされる可能性があるのであえて皇后を決めなかった。という考え方もあります。周りの人達も皇帝が決めたくないなら決めなくていい。という雰囲気でした。

あと代宗の皇后が男子を出産すると皇太子になってる沈氏の息子(後の徳宗)の立場が危なくなる。と代宗が考えたのかもしれません。

皇后がいない間は儀式や式典などで後宮の最高位の役目は貴妃が務めます。

 

代宗最愛の娘・華陽公主

769年。「華陽公主」の称号が与えられました。

華陽公主は知的でお行儀のよい娘でした。

父が好きなものには一緒に喜び、父が嫌いなものには一緒に怒りました。代宗時代の皇帝の娘の中で最も人気のあった人物といわれます。もちろん代宗からも大変可愛がられました。

病で闘病生活をおくる

772年。華陽公主は病になりました。記録には「瘵疾」とあるので結核か不治の病のようです。

代宗の指示で道教に入信。「瓊華真人」という名を与えられました。代宗は道教の力で病を治そうととしたのかもしれません。唐の国教は道教なので唐の皇族は道教を信じています。

その後も華陽公主は闘病生活をおくります。

そこで代宗は不空三蔵法師に祈祷を依頼しました。

 不空三蔵法師(705~774年):唐に密教を広めたインド出身の僧侶。恵果和尚の師匠。つまり弘法大師空海の師匠の師匠。

代宗は密教の力も借りて娘の病を治そうとしたのかもしれません。

ここまでに宮中で当時最高の医療を受けているはずですが。治る様子がないので代宗は道教や密教に頼ったのでしょう。

774年。華陽公主の病が深刻になり代宗がお見舞いに行きました。

臨終の間際、華陽公主はお見舞いに来た父の指を噛みました。

そして華陽公主は死去。

生年はわからないので享年がわかりませんが。まだ20歳にも満たない年齢だったと思われます。

娘の死に代宗はとり乱し数日間食事をとりませんでした。その間、朝廷にも出席しませんでした。それでは政治が止まってしまうので大臣に説得されようやく政治に復帰しました。

華陽公主は最初、長安の城東に埋葬されました。

775年。華陽公主の死から1年後。母の独孤貴妃も死去。死後「貞懿皇后」の称号が贈られました。貞懿皇后は荘陵に埋葬され。華陽公主も母と同じ荘陵に埋葬しなおされました。

華陽公主が結核だったとすると母の貞懿皇后 独孤氏も結核だった可能性もあります。

777年。代宗は華陽公主を弔うために道観(道教の寺院)を建設しました。韓王 李迥(華陽公主の同母兄)の娘を出家させ、道観の主持(尼寺の住職に相当)にしました。

 

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