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城陽公主(唐太宗の娘)夫は兄と謀反を起こし、自分は蠱毒事件を引き起こして地方に左遷

とう 5.3隋唐の公主

城陽公主(じょうようこうしゅ)は唐の2代皇帝 太宗 李世民の娘。

母は長孫皇后。

皇太子・李承乾、魏王・李泰、唐高宗・李治の同母姉妹です。

将軍・杜如晦の息子・杜荷と結婚しました。

ところが杜荷は兄とともに謀反をおこしてしまい処刑されてしまいます。

その後、薛瓘と再婚しました。

高宗・李治の時代に、城陽公主は巫蠱事件をおこしてしまいます。高宗は城陽公主を罰しませんでしたが、夫の薛瓘が降格になって房州に左遷されてしまいました。

城陽公主も薛瓘とともに房州で暮らして現地で亡くなります。

最初の結婚では夫が兄とともに謀反をおこして処刑。二度目の結婚では自分が事件をおこして夫が左遷、自分も夫ともに地方で一生を終える。という波乱の人生を歩んだ公主です。

史実の城陽公主はどのような人物なのか紹介します。

 

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城陽公主(じょうようこうしゅ)

姓:李(り)
名:月貌(げつぼう)
称号:城陽公主(じょうようこうしゅ)

生年:624年ごろ
没年:664年

父:太宗・李世民
母:長孫皇后

同母兄弟姉妹:皇太子・李承乾、魏王・李泰、唐高宗・李治、 長楽公主、普陽公主、新城公主

夫:
杜荷(と・か)死別
薛瓘(せつ・かん)再婚

子供:薛顗・薛緒・薛紹(父:薛瓘)

本名は李月貌(り・げつぼう)

城陽公主は両親からたいへん可愛がられていました。

唐建国に貢献した凌煙閣二十四功臣のひとり 杜如晦(と・じょかい)の息子・杜荷(と・か)と結婚しました。

杜荷は皇帝の婿になり「襄陽郡公」の称号が与えられました。

太宗・李世民の娘は二十四功臣の息子と結婚していることが多いです。杜如晦は二十四功臣の3番目。太宗・李世民の信頼が非常に高い重臣でした。

杜荷は城陽公主の兄・皇太子 李承乾とも親しくしていました。

皇太子 李承乾は後継者の座を巡って魏王 李泰と対立。

貞観17年(643年)。李承乾は李元昌、趙節、李安儼、侯君集、たちと謀反事件を起こしてしまいます。このとき杜荷は李承乾に積極的に挙兵を勧めました。

ところが反乱は失敗。杜荷は侯君集、李安儼たちとともに斬首されました。李承乾は流罪の後、死亡しました。

城陽公主は未亡人になってしまいます。

薛瓘と再婚

太宗・李世民は娘の将来で悩んだ末、衛尉卿の薛瓘(せつ・かん)と結婚させました。

太宗・李世民は前回の結婚は失敗したと公開してたので今度は結婚させる前に占いを行わせました。

占いの結果、城陽公主の結婚は日中に行うのが吉と出たので、昼間に結婚式を行おうとしました。でも中国の伝統では結婚式は夕暮れ時に行う事になっていました。伝統に反するという理由で臣下の馬周たちが反対。

太宗・李世民は慣習通り夕暮れに結婚式を行わせました。

でも太宗・李世民の心配をよそに城陽公主と薛瓘は仲のいい夫婦になり二人の間には三人の子供が生まれました。

649年。父の太宗・李世民が死去。

高宗の時代

弟の李治が即位しました。高宗の誕生です。

高宗・李治は城陽公主とは同じ母から生まれた姉弟です。二人は仲のよい姉弟でした。

龍朔2年(662年)。城陽公主が重病になりました。

高宗は城陽公主を治療するために宮殿の医師を何人も派遣しました。でも治療の効果はありません。

ある人が高宗に青龍寺の法朗禅師が公主の病を治すことができると進言しました。高宗はさっそく法朗禅師に祈祷を命令しました。

法朗禅師は祭壇を作り観音経を唱え祈祷を行いました。法朗禅師の祈祷が効いたのでしょうか、城陽公主は回復しました。

病気が治った城陽公主は法朗禅師にたくさんの褒美を与えました。観世音菩薩の力で病気が回復したと思った城陽公主は、青龍寺を観音寺(観世音菩薩を祀る寺)にしようと思い高宗に手紙を書きました。

高宗は姉が回復したのを見ました。もちろん高宗は喜んで城陽公主の言うとおりに青龍寺を観世音菩薩を祀る寺にしました。

ちなみに約150年後。青龍寺の住職だったのが恵果和尚。長安に留学した空海が密教の奥義を学んだ場所も青龍寺です。

巫蠱事件で夫が左遷

麟徳元年(664年)。城陽公主の巫蠱事件が起こりました。

巫蠱とは呪術の一種。呪いをかけて人に危害を加えたり。虫やムカデ、蛇など毒のある生き物を使って毒(蠱毒)を作りそれで人を病気にしたり殺すこと。人に危害を加えるために使うことが多いですが、金銀を増やす方法、病気を治す方法もあります。

城陽公主がどのような呪術を使って、何をしようとしたのかはわかりません。

高宗は城陽公主の事件を知りました。唐の法律では「蠱毒を作ったり、使って人を殺した場合は死刑。蠱毒を持っているだけでも追放」と決まっています。

でも高宗は城陽公主を罰しませんでした。

とにかく高宗は城陽公主には甘いのです。

かわりに宸衛将軍の 薛瓘を房州刺使に降格、左遷しました。

城陽公主と夫の薛瓘の関係はとても良かったようです。城陽公主は薛瓘に申し訳ないことをしたと罪悪感を感じました。そこで城陽公主は自分も夫ともに房州(現在の中国湖北省十堰市、長安(西安)からの距離は約400km、中国の広さを考えれば近い方)に一緒に行くと高宗に言いました。高宗は姉の城陽公主に長安から出ていってほしくありません。でも城陽公主の決意は変わりません。

城陽公主は薛瓘とともに房州に向かいました。

咸亨2年(671年)。太平公主は夫の赴任先房州で亡くなりました。享年41歳くらい。その後、夫の薛瓘も死亡しました。

姉の訃報を聞いた高宗は大変悲しみました。喪に服した高宗は5日間仕事ができませんでした。

高宗・李治は房州に使者を派遣して、城陽公主と薛瓘の遺体を長安に運ばせ葬式を行いました。その後、城陽公主は趙陵に埋葬されました。

高宗の最愛の一人娘(母:武則天)太平公主を城陽公主と薛瓘の息子・薛紹と結婚させました。いとこ同士の結婚になりますが当時は珍しくありません。

息子たちは武則天に反乱をおこして処刑

高宗・李治の死後。

688年。8代睿宗・李旦の在位中。

睿宗を傀儡にして権力を握る武太后(後の武則天)に対して皇族たちが次々に反乱を起こしました。

このとき、城陽公主の息子たち薛顗と薛紹は琅邪王・李沖(り・ちゅう)の反乱に参加。反乱は失敗して李沖は処刑され、薛顗と薛紹たち仲間も捕らえられました。

薛顗は処刑。薛紹は高宗と武太后の娘婿なので斬首ではなく杖刑のあと獄中で餓死しました。

太平公主はその後、武則天の一族の武攸曁と再婚しました。

城陽公主と似たような境遇です。

城陽公主と違って太平公主はその後も野心をもって権力に関わろうとするのですがそれはまた別のお話です。

 

ドラマ

大唐流流 2021年、中国 演:楊之楹 役名:思玲公主
長歌行 2021年、中国 演:趙露思 役名:李楽嫣

 

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