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平原公主(唐 昭宗の娘)は唐滅亡の混乱で行方不明

とう 5.3隋唐の公主

平原公主(へいげんこうしゅ)は唐の22代皇帝 昭宗の娘。

中国ドラマ「狼殿下」のヒロイン・馬摘星(ば・てきせい)の母・屏芫公主(へいげんこうしゅ)のモデルになった人物です。

10世紀末。唐は内乱続き。唐の朝廷は国内を統治できなくなっていました。

なんと皇帝の昭宗の一家が宦官に拉致され鳳翔を支配する節度使の李茂貞の所に連れて行かれてしまいます。

そこで平原公主は李茂貞の息子・李継侃と結婚させられました。

後に平原公主は長安に戻ることができたのですが。唐が滅亡。平原公主の行方はわからなくなりました。

史実の平原公主はどんな人物だったのか紹介します。

 

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平原公主の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

姓 :李
名称:不明

国:唐
地位:公主
称号:平原公主

父:唐 昭宗 李曄
母:何皇后
夫:李継侃

子供:不明

彼女は唐の22代皇帝 昭宗の娘です。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

平原公主の生年は不明。
結婚した年から逆算すると980年代の生まれと思われます。

父は唐の22代皇帝 昭宗 李敏

母は何皇后。

昭宗の時代。唐は内乱続き。唐の朝廷には領土を維持する力はなく、各地で様々な武装勢力や反乱軍が争いを続ける戦国時代のようになっていました。

応仁の乱以降の室町時代に似ています。

その潰れかけの唐の皇帝だったのが平原公主の父・昭宗。

894年。菅原道真の提案で遣唐使を送らないことにしたのも昭宗の時代。この13年後、唐は滅亡するので菅原道真の判断は正しかったのです。遣唐使は送らなくても新羅や渤海から人がやって来ていたので唐の情報は入手していました。

光化3年(900年)。劉季述たち神策軍(宦官が司令官を務める皇帝直属軍)の一部がクーデターを起こして昭宗が退位。皇太子の李裕が皇帝に担がれました。

天復元年(901年)正月。皇帝に忠誠を誓う神策軍の孫德昭、董彥弼(ちょうげんこう)たちは宰相・崔胤(ちょう・いん)の命令で反乱軍を討伐。昭宗は皇帝に復帰しました。

昭宗皇帝が拉致される

ところが宦官の韓全誨(かん・ぜんかい)が昭宗一家を拉致。鳳翔の節度使 李茂貞(り・もてい)を頼って鳳翔に逃亡しました。

平原公主と李継侃が結婚

天復3年(903年)正月。李茂貞は自分の地位を高めるため、自分の息子・李継侃と昭宗の娘・平原公主を結婚させました。

何皇后は反対しましたが、昭宗は助かるためには仕方ないと皇后を説得しました。

その後。宰相・崔胤と手を組んだ朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)が鳳翔を攻めて李茂貞は降伏。昭宗は鳳翔を離れました。

平原公主が長安に戻る

昭宗は朱全忠に平原公主を長安に連れ戻すよう要求。朱全忠は李茂貞に手紙を書き、平原公主は李茂貞と離縁して鳳翔から長安に戻りました。

昭宗たちを拉致した韓全誨は処刑されました。

李継侃は李茂貞のもとに残りました。

天祐元年(904年)1月。今後は朱全忠が昭宗を脅して自分の本拠地の洛陽に遷都させ。朱全忠は朱友恭と氏叔琮に命令して昭宗を殺害。昭宗の九男・李祚を皇帝(哀帝)にしました。

朱友恭と氏叔琮は皇帝殺害の罪で朱全忠に殺害されました。自分で命令しておいて消してしまうのですから酷いものです。

唐の滅亡

天祐4年(907年)3月。朱全忠は哀帝から皇帝の座を奪って梁(りょう)を建国。歴史上は「後梁」と呼びます。唐は滅亡しました。哀帝は朱全忠によって殺害されました。

この騒ぎの中で平原公主の行方はわからなくなっています。

 

ドラマ 狼殿下の屏芫公主のモデル

狼殿下 2018年。屏芫公主(へいげんこうしゅ)のモデルになったのが平原公主。
屏芫公主は前朝の公主。前朝が滅んだ時に助け出され密かに生き延びて娘を出産した。その娘がヒロインの馬摘星(ば・てきせい)という設定です。

ただし屏芫公主が嫁がされたのは反乱勢力ではなく隣国の迄貚(きつたん)国。

ドラマの前朝が史実の「唐」になります。煬国皇帝・楚馗のモデルは後梁の朱全忠です。迄貚のモデルは契丹(きつたん)。

「屏芫公主」とモデルになった「平原公主」の発音はどちらも「へいげんこうしゅ」。中国語の発音もほとんど同じです。意識しているのは間違いありません。

 

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