宋 文帝・劉義隆は劉宋の第3代皇帝。文帝の治世は「元嘉の治」とよばれ劉宋の全盛期をとされます。
病気で彭城王 劉義康に政治を任せていた時期もあり。国内政治の混乱と戦争に明け暮れ。平和な時期が長く続いたわけではありません。
北魏に奪われた領土の奪回を目指し何度か北魏に戦いを挑みましたが失敗。逆に反撃されて大きな被害を受けています。
それでも戦乱の続く南北朝時代の劉宋では 文帝の時代が全盛期とされます。
また日本との意外な関係もあります。
史実の宋 文帝・劉義隆はどんな人物だったのか紹介します。
文帝・劉義隆の史実
どんな人?
生年月日:407年
没年月日:453年3月16日
姓 :劉義隆(りゅう・ぎりゅう)
国:宋(劉宋、南朝宋とも)
地位:皇帝
諡号:文皇帝
廟号:太祖
父:武帝・劉裕
母:胡婕妤
正室:文元皇后 袁斉嬀
子供:劉劭(皇太子)、孝武帝 劉駿など。
古代中国。南北朝時代の南朝 宋(劉宋)の3代皇帝です
日本では古墳時代になります。
東晋の時代
407年。劉義隆(後の文帝)が誕生。
父は東晋の将軍・劉裕(りゅう・ゆう)。
母は劉裕の妾だった胡婕妤(こ・どうあん)。
409年。母の胡婕妤が死亡。理由はわかりませんが、何か問題を起こしたらしく劉裕によって胡婕妤は賜死になっています。
劉宋の建国後
420年。父の劉裕は東晋の恭帝から皇帝の座を奪い自分が皇帝に即位しました。武帝(高祖)の誕生です。東晋が滅亡。劉宋が建国しました。
正式な国名は「宋」です。
他の同じ名前の国と区別するため「南朝宋」「劉宋」ともいいます。
422年。武帝(高祖)劉裕が死去。
武帝の長男、少帝 劉義符が即位しました。 劉義符は問題が多かったらしく重臣の徐羨之、謝晦たちは皇帝の廃位を計画します。
424年。順番では次の皇帝には次男・劉義真が候補になります。でも徐羨之は劉義真は皇帝にふさわしくないと考え暗殺しました。
その後。徐羨之、謝晦たちは皇太后の賛成をとりつけて劉義符を廃位させ。武帝の三男・劉義隆を即位させることにしました。
江陵にいた劉義隆は兄の殺害の話を聞き、徐羨之たちを警戒していました。徐羨之たちから「皇帝になるため都の建康に来て欲しい」と言われても、すぐには行きませんでした。
皇帝・文帝の時代
424年。劉義隆は身辺を配下に守らせ、道中を警戒しながら建康に向かいました。
正式に皇帝として迎え入れられた文帝 劉義隆 でしたが、皇帝を殺した徐羨之たちを信用できるはずがありません。とりまきの王華や王曇首たちを王府から呼び寄せました。
劉義隆はすぐにでも徐羨之を処刑したいと思っていました。でも彼らは軍をもっていたので様子をうかがい。味方を増やしました。
426年。劉義隆は徐羨之、傅亮、謝晦たちを少帝と劉義真殺害の罪で有罪だと発表。劉粹、檀道済(たん どうせい)に出兵を命じました。檀道済は当時の劉宋で最も功績の大きかった将軍です。
それを聞いた徐羨之は自害。傅亮は逮捕されたあと処刑。謝晦は檀道済が文帝に味方していると聞いて逃げ出しましたが、逮捕、処刑されました。この謝晦の娘が彭城王 劉義康の正室。彭城妃 謝氏です。
徐羨之の死後。揚州刺史(行政長官=宰相)は王弘が務めていました。王弘(おうこう)は名門貴族の琅邪王氏の一族。当時、琅邪王氏は朝廷で大きな力をもっていました。
名門貴族の力を弱めたいと思っていた文帝は彭城王 劉義康(りゅう・ぎこう)を朝廷に呼び出して政治に参加させました。
429年。彭城王 劉義康を司徒、錄尚書事に任命。要職を任せました。
432年。王弘が死亡すると、彭城王 劉義康を揚州刺史に任命しました。
やがて文帝は病気になり政治を行うことができなくなったので彭城王 劉義康が朝廷を仕切るようになりました。
劉宋で一番の将軍・檀道済を処刑
436年。文帝の病は重くなっていました。
彭城王は「もし文帝が亡くなれば、大きな力を持つ檀道済を抑えるものがいなくなる」と考え文帝に訴えました。
檀道済は軍人としては有能で何度も手柄をたてていました。でも、それをいいことに文帝に逆らったりしていました。檀道済は配下に優秀な者を多く揃えていたので彼が謀反をおこしたら大変なことになります。
彭城王は「檀道済は危険だ」と文帝を説得。
不安になった文帝は檀道済と副官の高進之、8人の息子たち謀反人として処刑するよう命令しました。
文帝の前に連れてこられた檀道済は「お前は万里の長城を壊すことになるのだぞ」と文帝を罵ったといいます。檀道済の死を知った北魏では「これで恐れるものがいなくなった」と喜んだといいます。
彭城王 劉義康との決別
彭城王 劉義康はその後も政治を行いました。ところが次第に独断で判断することが増えました。
文帝の病がさらに重くなると。彭城王 劉義康の側近・劉湛は「彭城王が皇帝になるべきです」と言い出しました。劉湛は兄を退けて兄弟が即位した事例がないか過去の記録を探し始めました。
病気から回復した文帝はその話を聞き、彭城王への信頼が薄れていきます。
440年。文帝は彭城王を担ごうとした劉湛を処刑。彭城王が辞職を求めてきたので認めました。彭城王は江州に異動になりました。
文帝の忠実な部下になった江夏王 劉義恭
その後、文帝は江夏王 劉義恭(りゅう・ぎきょう)を揚州刺史(宰相)に、殷景仁を尚書僕射に任命しました。
江夏王 劉義恭は彭城王の件を知っているので自分から動いて何かをすることはなく。命令があれば書類上の手続きをするだけでした。殷景仁はもともと高齢で病気ぎみだったので数カ月後に死亡しました。
こうして文帝は政治権力を取り戻しました。
北魏との戦い
武帝・劉裕の死後の出来事に遡りますが。北魏は劉宋を攻めて黄河周辺の土地を占領していました。
そこで文帝は領地の奪回を目指していました。
第一次北伐
430年。即位して間もないころの文帝は王仲や竺霊秀を率いて黄河を渡り北魏に攻め込みました。そのとき北魏は兵が少なかったので退却。その後、北魏は兵を集めて攻めてきました。洛陽の金庸城を北魏に奪われ。文帝は檀道済たちを派遣しましたが。その後の戦いでも土地を奪回することはできず。北魏と和睦。北魏攻めは失敗しました。
その後。文帝が病になり、彭城王の時代になると北魏攻めは行わなくなりました。
その間も王玄謨が何度か北魏攻めの提案をしてきました。文帝は「王玄謨の言葉はありがたい」と周囲の者に語っていました。
国境での小競り合いはありましたが。大きな戦争がなく、しばらくは平和な時期が続きました。
第二次北伐
450年。北部を統一した北魏は10万の兵で攻めてきました。
劉駿に命令して北魏軍を攻めさせましたが敗退。劉駿は戦死しました。その後。北魏は撤退。
そこで文帝は北魏を攻めようとしました。とりまきの徐湛之、江湛、王玄謨は文帝に賛成しました。
でも沈慶之(しん・けいし)は過去の戦いを引き合いに出して「歩兵隊(このときの劉宋の主力)は騎馬(北魏の主力)に不利です。檀道済も勝てませんでしたし到彥之ですら敗れたのです。今の我軍はその時ほど強くはありません」と反対しました。
文帝は「いや我軍の敗因は別にあるのだ」と言って沈慶之の意見を却下。
文帝は沈慶之や太子の劉劭(りゅう・しょう)、蕭思話の反対を押し切って北魏攻めを決定。
蕭斌を総司令、王玄謨、沈慶之、申坦たちに命じて北魏を討たせました。しかし劉宋軍は敗退。北魏軍は逆に南に攻めてきました。北魏軍の勢いはすさまじく、長江付近まで北魏に攻められ街は焼き討ちや破壊、略奪にあいました。
文帝は「こんなとき檀道済がいたら」と後悔しましたが。15年以上前に処刑しているので遅いです。
第三次北伐
452年。北魏の太武帝が死去。文帝はそれを知ると冀州刺史 張永(ちょう・えい)に命じて北魏を攻めさせました。その後、蕭思話を援軍に送りましたが決着がつかず撤退しました。
劉義康の最後
劉義康を処刑
445年。范曄と孔熙先たちが 劉義康を担いで謀反を起こそうとしていることがわかり。范曄と孔熙先を処刑。劉義康を庶人にしました。
そして451年。第二次北伐の失敗後。文帝は劉義康を担いで謀反を起こす者がいるのではないかと不安になり。劉義康に自害の命令を出しました。劉義康は仏教徒だった(自殺すると極楽浄土に行けない)ので自害を拒否、役人が布団をかぶせて窒息死させました。
太子の挙兵
太子の劉劭は北伐の失敗は徐湛之と江湛にあると批判しました。
453年。太子・劉劭(りゅう・しょう)と従兄弟の劉濬は呪術師の巌道育のアドバイスを受けて文帝を呪いました。
文帝はそれを知って驚き、皇太子を廃するかどうか徐湛之と相談しはじめました。とくに名指しで批判された徐湛之は廃したいと思ったことでしょう。
廃されると思った劉劭は劉濬とともに夜間に挙兵。
文帝の最期
文帝が寝ていた宮殿は襲撃され、文帝は殺害されてしまいます。
文帝の死後。劉劭が皇帝になりました。
3ヶ月後。
武陵王 劉駿は沈慶之の助けを借りて劉劭を討ちました。
劉駿が次の皇帝(孝武帝)に即位します。
劉劭は劉宋の皇帝にカウントされず、孝武帝 劉駿が4代目とされます。
日本との関係
当時の日本は古墳時代。
413年から478年までの間。倭の五王たちが東晋と劉宋に朝貢しました。目的は朝鮮半島での軍事的支配権を得ること。新羅や高句麗より地位の高い位を貰えばそれだけ相手よりも有利な立場になれると考えたからです。
文帝の時代には何度か倭国から使者が来ました。
425年。倭王讃。(応神か仁徳天皇?)
430年。派遣した王の記録はなし。
438年。倭王珍。(履中か反正天皇?)
文帝が「安東将軍倭国王」の位を与える。
443年。倭王済。(允恭天皇?)
文帝が「安東将軍倭国王」の位を与える。
451年。倭王済。(允恭天皇?)
文帝が「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」「安東大将軍」の位を与える。このとき倭国の世子興(日本に世子という位はないので大王後継者(ひつぎのみこ)の意味)が来た。
この時代の倭王が誰なのかは諸説あります。
この倭国が畿内を中心にした「やまと」なのか、九州やそれ以外の勢力なのか問題になったこともありました。今では宋に使者を派遣した倭王は倭(やまと)の大王(おおきみ)と考えられています。
日本書紀にも「呉から使者が来た」「機織りの職人が来た」と書いています。当時の日本人にとって呉=王朝名に関係なく中国の意味(日本人がchinaを中国と呼ぶようになったのはわりと最近)です。
日本と中国の交流は遣隋使が有名ですが。その100年以上前の日本と宋の間に交流があったのは間違いありません。
ドラマ
驪妃(りひ) 2020年、中国
このドラマの皇帝が文帝。
彭城王 劉義康が政治を行っている時期のドラマ。皇帝は存在感ありません。でも皇帝が存在していることはわかります。
コメント