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斉安大君 李琄 再婚を繰り返して私生活が乱れていた遊び人

朝鮮王族 3 李氏朝鮮の王子

斉安大君・李琄は李氏朝鮮の王族。

8代国王・睿宗の次男。

兄も幼くして他界していたので斉安大君が次の王になってもおかしくないのですが。

父が他界したときに4歳だったことと病弱だったので王にはなれませんでした。

そうした境遇が影響したかどうかはわかりませんが。政治や学問には興味がなく、遊んで暮らしていました。

私生活も乱れていて2人の妻と3回結婚しています。

離婚をめぐっては朝廷内でも騒ぎになる事件も起こしています。

成宗時代の王族の中では問題児でした。

史実の斉安大君・李琄どんな人物だったのか紹介します。

 

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斉安大君・李琄の史実

いつの時代の人?

生年月日:1466年
没年月日: 1525年

名前:李琄(イ・ヒョン)
称号:斉安大君(チェアンテグン)→洛豊君
本貫:全州李氏

父:睿宗
母:安順王后韓氏
妻:商山府夫人 商山金氏
継室:順天朴氏

子供:なし

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代です。

日本では室町時代の人になります。

世祖の時代

1466年(世祖12年)に生まれました。

父は当時世子だった 李晄(イ・ファン)。

母は世子嬪の韓氏。

李琄(イ・ヒョン)は次男でした。

でも兄の仁城大君 李霬は李琄が生まれる前(1463年)に死亡しています。事実上の一人息子でした。

1468年(世祖14年)。世祖が死去。李晄が国王(睿宗)に即位しました。
母の韓氏は王妃(安順王后)になりました。

1469年。ところが睿宗は王になってわずか1年2ヶ月で病死してしまいます。

王になれなかった理由

李琄(イ・ヒョン)の兄・仁城大君 李霬はすでに他界していますから。李琄が王になってもおかしくありません。

順番でいえば李琄ですが。ところが李琄はまだ数え年で4歳。世祖はクーデターで王になりました。政権はまだ盤石とはいえません。ここで幼い王が即位すればまた王室が混乱して弱体化する恐れがあります。

しかも李琄は幼いころから体が弱く病気がちでした。兄も幼くして病気で死亡しています。父も若くして病死しています。親子そろって早死の血筋のようです。

王が後継者を決めずに死去した場合。王室の年長者が後継者を指名する事になっています。

そこで当時、後宮で最年長で力をもっていた慈聖大妃 尹氏(世祖の正室・ 貞熹王后)は臣下を集め泣きながら「誰が次の王にふさわしいと思うか」と問いかけました。

申叔舟(シン・スクチュ)や韓明澮(ハン・ミョンヘ)は「恐れ入りますが、どなたかを後継者にするかというのは臣下が口を挟むことではございません」と言い、慈聖大妃 尹氏に指名を求めました。

慈聖大妃 尹氏は幼くて病弱な李琄を王にするのは諦めました。

そうなると後継者は懿敬世子(桃源君)の息子です。懿敬世子は世祖と尹氏の息子。睿宗の兄です。

懿敬世子は周りからも期待されていた人物です。慈聖大妃 尹氏も懿敬世子に期待していました。懿敬世子は王になる前に病死しました。

懿敬世子には息子が二人いました。もともと懿敬世子が王にはるはずだったのでその息子が王になるのは問題ありません。

問題になるのは長男・月山君(ウォルサングン)なのか、次男の乽山君(チャルサングン)です。

ところが月山君の妻は名家の出身ではなく月山君を指示する重臣はいません。それに対して乽山君は当時最も力のあった韓明澮の娘と結婚しています。

王権を維持するためには重臣の支持が必要ですから慈聖大妃 尹氏は韓明澮たちと相談して乽山君を次の王(成宗)にしました。乽山君の生母・懿敬世子嬪(仁粋大妃)の判断も影響したといわれます。

いずれにしても李琄が王になれないのはかわりありません。

 

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成宗の時代

1469年(成宗1年)。李琄は 斉安大君(チェアンテグン) の称号が与えられました。

1474年(成宗5年)。曽祖父・世宗の嫡7男・平原大君の祭祀を受け継ぎました。儒教社会では祖先を祀るのは大事なことなので、子孫がいなくなると一族の誰かが受け継がないといけないのです。

乱れた結婚生活

1476年(成宗7年)。12歳の時。金守末(キム・ソマク)の娘・金氏と結婚しました。

結婚後、妻の金氏が足を引きずりながら胸を痛め、癲癇(てんかん)の発作を起こしました。

斉安大君は他の家で妻の葬儀があると「金氏はいつ死ぬのか?」「どうすれば私もこうなるのか?」と話し、金氏が死ぬのを望んでいるかのような発言をしていました。

14歳の時。母の仁恵王大妃(安順王后)が「持病があるのに婚礼前にあらかじめ告げなかった」と金氏夫人の母方の祖父・劉秀(ユ・ス)を批判。成宗に息子の離縁を要求しました。成宗も仁恵王大妃の言い分をきいて斉安大君と金氏の離縁を認めました。

朴氏との再婚生活もうまくいかない

その年。斉安大君は朴鐘仙の娘・朴氏と再婚しました。

ところが斉安大君と朴氏は夫婦仲がよくありません。

やがて前妻の金氏と不倫するようになります。金氏の病気は良くなったのでしょうか?かつて死を望んだはずの金氏と付き合うようになりました。

でもこのことは周囲に知られてしまいます。

成宗13年(1482年)。鄭光世(チョン·グァンセ)が斉安大君は金氏のもとに通っていると成宗に報告しました。

調べてみると、斉安大君は金氏の家に泊まったり、金氏を家に連れてきて同居するようになっていました。

朝廷内では斉安大君に対して「妻がいるのに他の女と密通している」という罪で処分すべき。という意見が出ました。

前妻の父・金守末(キム・ソマク)はこの事実を知っていたのに報告しなかった。という理由で処罰されました。でも成宗は「斉安大君はまだ幼い」という理由で処分はしませんでした。

「幼いなら結婚するな」と言いたいところですが、そういう正論が通じないのが朝鮮王朝の王族です。

朴氏夫人の同性愛疑惑事件

1482年(成宗13年)。刑房承旨の姜子平(カン·ジャピョン)が「斉安大君の妻・朴氏は奴婢の女と同性愛の関係にある」という理由で訴えをおこし。奴婢の女・内隠今(ネウングム)、今音勿(クムウムル)、屯加未(ドゥンガミ)を逮捕しました。

逮捕された彼女たちは「朴氏が誘惑した」と証言しました。

この出来事は仁恵王大妃(安順王后)に報告されました。仁恵王大妃は内官の安仲敬(アン·ジュンギョン)と徐敬生(ソ·ギョンセン)に調べさせました。朴氏は「私はそんなことは言っていない。侍女たちが私を陥れようとしている」と証言しました。

そこで右義政の洪應(ホンウン)と右副承旨のカン·ジャピョンが直接義禁府で侍女たちを拷問。「朴氏への謀略だった」という証言を引き出しました。

成宗と大臣たちの間で処分を巡って意見が分かれましたが。最終的に嘘の証言をした侍女は杖刑100回の処分。さらに主犯の今音勿(クムウムル)は「官婢」にされました。

この事件は当時、朝廷を騒然とさせました。でも事件はそれで終わりではありません。

結局、朴氏は離婚

その年、大王大妃(貞禧王后)と斉安大君の母・安順大妃は成宗に「斉安大君と朴氏の離婚を希望している」と伝えました。

成宗は「朴氏の濡れ衣は晴れたし落ち度はないのだから離婚すべきではない」と反対しました。臣下たちも離婚には反対でした。

それでも大妃たちは「嫁の朴氏は親不孝者だ」という理由で斉安大君と朴氏の離婚を要請。

すると成宗は臣下たちの反対を押し切って斉安大君と朴氏を離婚させました。

濡れ衣は晴れても朴氏は離縁させられるのです。

3年後の成宗16年(1485年)。朴氏が死亡しました。死因は不明です。

おそらく斉安大君は朴氏と離婚したいので侍女に嘘の証言をさせたのでしょう。でも王族を処分するわけにいかないので侍女が犠牲になったのです。

前妻の金氏と再婚

1485年(成宗16年)。朴氏が死亡した後。

斉安大君は成宗に「金氏と再婚させてほしい」と上訴しました。しかも「認めなければ一生独身で暮らす」と脅しました。

成宗は斉安大君の要求には呆れたかもしれません。

でも成宗には斉安大君が叔父であり「先王の睿宗の元子だった斉安大君を追い出して自分が王位に就いた」という後ろめたさがあります。そのうえ、斉安大君が子孫まで残せないのでは申し訳なく思いました。

仁恵王大妃(安順王后)からも「息子は頑固で愚かだが病気もあるので許して欲しい」とお願いされました。そこで成宗は臣下たちの意見を聞きました。

臣下たちは「金氏は過ちではなく病気が離婚理由であり、今は金氏の病気が完治している。2番目の夫人朴氏はすでに死んでいる」ことを理由に再婚に賛成しました。

成宗はついに斉安大君と金氏の再婚を認めました。

その後は離婚問題は起こりませんでした。

斉安大君には他にも妾がいたり妓生と付き合ったりして、遊んで暮らしたようです。

1525年(中宗20年)。斉安大君が死亡。享年60。

体が弱い、病弱と言われながらも気楽に生きて当時としては長生きしました。ストレスだらけの国王になったら、もっと命は短ったかもしれません。

成宗は「洛豊君」の称号を与えました。

斉安大君には跡継ぎがいなかったため、成宗は弟で完原君 李の子、李壽禮(1508-1568)を喪主に任命しました。

遊び人だった斉安大君

斉安大君は政治や学問には興味がなく、酒と遊びが好きでした。

王族でしたが漢字が書けないほど無知でした。そのため王室への手紙には訓民正音(ハングルの原型)を使っていました。

斉安大君の家には多くの妾や遊女がいました。張魯水(チャン・ノクス)もそのひとりです。斉安大君は彼女たちと音楽や歌を楽しんだといわれます。

結果論ですが斉安大君が王にならなくて良かったかもしれません。

斉安大君の家は他の王族よりも大きかったといいます。

朝廷も宮廷で採用する妓生の採用試験場に斉安大君の屋敷を使うこともありました。屋敷の広さと宮廷に近いという利便性を考えてのことだとも言われます。

斉安大君の屋敷は死後、壽進宮と呼ばれ。成人する前に亡くなった王子や公主を慰霊する場所に使われました。

燕山君との関わり

遊び人で政治に野心がなかった斉安大君は燕山君とも気があったようです。

そうして親しくなった燕山君に紹介したのが斉安大君の家に出入りしていた妓生の張魯水(チャン・ノクス)です。

 

ドラマ

チャン・ノクス 1995年、KBS2 演: ペク・ユンシク
ハン・ミョンフェ 1994年、KBS2 演:イ・ホ・ジェ
王と妃 1998年、KBS1 演: パク・チャンファン
王と私 2007年、SBS 演: イム・ソンソン
インス大妃 2011年、JTBC 演:コ・ユンフ

 

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