朝鮮 世宗は李氏朝鮮の第4代国王。
ハングルの元になる訓民正音を開発しました。
朝鮮史上最高の名君とされています。
様々な知識や技術を取り入れ朝鮮の発展に尽くしました。
晩年は病に悩まされ、政治の一部を世子に任せるようになりました。
史実の世宗はどんな人物だったのか紹介します。
朝鮮 世宗の史実
いつの時代の人?
生年月日:1397年5月7日
没年月日:1450年3月30日
享年:52
名前:李裪(イ・ド)
廟号:世宗(セジョン、せいそう)
字:元正
父:太宗 李芳遠
母: 元敬王后閔氏
妻:昭憲王后沈氏
子供
文宗、世祖、安平大君、臨瀛大君、広平大君など
18男、7女
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代です。
日本では室町時代の人になります。
朝鮮の建国から間もない1397年(洪武30、太祖6年)。李芳遠(太宗)の3男として生まれました。
母は正室の閔氏(元敬王后)
1400年。父の李芳遠が朝鮮国王(太宗)になりました。
李裪(イ・ド)は幼いころから可愛がられたといいます。
1408年(太宗8年) 12歲の時、「忠寧君」になりました。
沈氏(後の昭憲王后)と結婚。儒学者の李随から儒教を学びました。
1413年。「忠寧大君」になりました。
兄の讓寧大君が世子(王位継承者)になっていましたが。讓寧大君は問題行動が多かったで1418年に廃されました。忠寧大君が世子になりました。
上王・太宗のいる時代
1413年。忠寧大君が世子になってまもなく太宗は忠寧大君に譲位しました。世宗の誕生です。
太宗は「上王」になりました。太宗は「息子はまだ経験が浅い」として軍事権を持ち続け。外交や軍事などは上王の太宗が決定していました。太宗は沈温たち世宗の母方の一族を粛清。世宗の地位を脅かしそうな政敵を排除していきました。
太宗は邪魔な存在は排除して世宗の地位を安定させようとしたようです。
倭寇対策
1419年。上王・太宗の命令で倭寇討伐として対馬を攻撃。
対馬攻撃については太宗が行っていたのでこちらを御覧ください。
1422年。太宗が死去。世宗が中心になって政治を行えるようになりました。
世宗は倭寇対策には武力ではなく懐柔で対処しました。倭寇に家や食料、妻を与え定住させ。倭寇が暴れるのは食料がないからだとして対馬の守護大名・宗氏には米を渡しました。
宗氏を通して室町幕府とも交渉して朝鮮側の富山浦など3つの港を開港。公式な貿易を行えるようにして倭寇を抑えようとしました(倭寇が暴れる理由の一つに貿易ができなくて失業したからというのがありました)。
このころ室町幕府が日本国内でも倭寇対策をしたこともあって倭寇は収まっていきます。
世宗の政治
世宗は毎日午前4時に起きて夜明けとともに朝廷に入り政務を行い。夜は寝室で読書して熱心に仕事や学問にはげみました。
唐の玄宗皇帝が若い頃は有能だったのに晩年になって堕落したことから「明皇訓誡」(明皇は玄宗の別名)を編纂させ戒めにしました。
まだ人材採用にも熱心で黄喜(ファン・ヒ)など有能な臣下をとりたてました。
集賢殿の設置
人材育成と自分の政治を助ける組織として、中国や高麗の組織を参考に「集賢殿」を作りました。世宗は若くて有能な学者を集め彼らに特権を与え、様々な研究をさせました。集賢殿から如鄭麟趾、李思哲、鄭昌孫、申叔舟、崔恒など有能な人物が誕生しました。
刑罰の緩和
世宗は鞭打ちを廃止。15歳以下、70歲以上の者は殺人・強盗を除き、投獄は免除になりました。過酷な処罰の乱用を減らし、獄中の待遇も改善しました。
農業開発
世宗は農業の開発を積極的に進めました。鄭招たちに「農桑輯要」を編纂させ、農業技術の普及に努めようとしました。
税制の変更
貢法詳定所を設置。高麗時代から続く税の集め方を変えました。それまでは役人を派遣してその田畑からどのくらい税収が見込めるか判断してから税率を決めていました。でもこの方法では役人の不正が起きやすいので、田畑の面積で一律に税率を決めました。
朝鮮通宝の発行
世宗は朝鮮独自の通貨を発行。寺院を壊してそれで没収した釣り鐘や仏像の銅を使って貨幣を鋳造しました。
ところが朝鮮の人々は米や物々交換になれていて、硬貨への信頼度が低くなかなか使おうとしません。朝廷が強制的に貨幣で納税させようとしたりしまたが、うまくいきません。その後も様々対策をして貨幣の流通を広めようとしましたが。朝鮮の貨幣は普及しませんでした。
技術の発展
世宗の時代は朝鮮で様々な技術が発達した時代でした。蒋英実(チャン・ヨンシル)など、身分は低くても有能な者を採用。蒋英実は世宗の支援をうけならが中国やアラビアの資料を参考に水時計、雨量計、日時計、渾天儀などを作りました。これらの技術は英祖の時代になっても参考にされました。
世宗は暦の改革も命じました。朝鮮暦の基準になる緯度を北京から漢城(ソウル)に変更しました。これによって日食や月食の起こる日をより正確に知ることができるようになりました。
儒教社会では「日食は天の意思」と考えられました。日食が起きたら君主が儀式をしないと王朝の存亡に関わる災難が起こるとされていました。正確な日食を予想するのは儒教国では重要なことでした。
仏教弾圧と信仰
世宗は太宗の教えを引き継ぎ、仏教弾圧を行いました。儒教の強い朝鮮では仏教は批判の対象になります。僧侶は賤民扱いでした。
世宗は僧侶が戒律の違反や横領したのを理由に仏教弾圧を強め、7つあった宗派を2宗派に削減。寺院、僧侶の数も大幅に減しました。仏教は高麗時代までは栄えていましたが、世宗の時代に壊滅的な打撃をうけ。山間部の寺が残るだけになりました。
ところが晩年。病がちになった世宗は1440年ごろから寺院の再建と修復を行い始めました。昭憲王后の死後。心の拠り所を求めた世宗は仏教を信仰するようになりました。臣下の反対を押し切って信仰を続けました。世宗の影響で安平大君や首陽大君(世祖)も仏教を信仰するようになります。
イスラム教の禁止
モンゴル帝国にはイスラム教徒がいたのでイスラム教徒は高麗でも布教活動していました。そのため朝鮮王朝初期にはイスラム教徒がいました。
世宗はイスラム教徒に朝鮮の服を来させ、イスラム教の宗教儀式を禁止しました。朝鮮からイスラム教はなくなりました。
儒教の普及
世宗は熱心な儒教の信者でした。世宗は儒学者を大事にして在位中に儒学者を一人も殺しませんでした。
集賢殿の学者に儒教を研究させ、庶民の婚礼や葬儀の儀礼を規定する法律を作成。三網行実図を作り儒教的な道徳を広めました。
奴婢の増加
それまで父親が良人(奴婢でない人)なら母が奴婢でもその子は良人でした。世宗の時代に父親が良人でも母が奴婢ならその子は奴婢と決められました。
妓生と良人の男の間に生まれた子は男なら奴婢、女なら妓生と決められました。また、国境を守る兵士たちの相手をするための妓生もおくように法律を作りました。
これらの法律で奴婢や妓生が増え、両班は更に奴婢を多く持てるようになりました。
世宗は民を愛する王と言われますが意外と身分の低い人には冷たいです。この国では奴婢は人ではなく 物(売買や相続の対象になる)なので世宗の愛する「民」には入っていないのかもしれません。
明との関係
朝鮮は伝統的に事大主義(大国にすり寄って自分の立場を守ろうとする思想)です。世宗も明の皇帝には忠誠を誓っています。朝鮮国内の儀式も明風に改めました。
中国式にするのが「文明国の証」で独自性は「野蛮の証」とされた時代でした。
貢ぎもへの要求
朝鮮は明に金銀の鉱物、女性を貢ぎものとして送っていました。明の永楽帝の要求は厳しく。朝鮮太宗・世宗の時代には多くの女性が連れて行かれました。世宗も「明の皇帝の命令なので仕方ない」と74人の貢女を送り朝鮮史上最多になりました。
しかしさすがに国内から改善を求める声が強くなり世宗は貢ぎものを軽減するように明と交渉。明の永楽帝の死後。貢女の要求は弱まり、馬や人参、織物を増やすことで金銀、貢女を減らしました。
女真やモンゴル対策
女真の部族長が明に反抗して朝鮮に逃げ込んできたときにはその族長を討ちました。
治世の後半にはモンゴルが朝鮮に従属するよう書簡を届けてきました。そこで明に報告して、モンゴルの使節の入国を拒否しました。
その後モンゴルとオイラトが対立。勝ったオイラトが明と対立。
1449年。明とオイラトが戦闘になり土木の変が発生しました。明の遼東指揮官・王武は朝鮮に援軍を要請。朝鮮は援軍を派遣。明とともにオイラトと戦いました。
北京の防衛に成功後、明は朝鮮に馬2~3万頭をよこすように要求しました。さすがにすべてを用意することはできず1477頭を渡しました。
領土拡大
世宗の時代、大きな問題になっていたのが北の女真族です。
世宗は国境を守るため明の火器を参考に朝鮮国内でも火器類を研究させました。小火炮、火炮箭、火硝などの火器類を製造しました。
豆満江、鴨緑江のあたりは女真族が多く住む地域でした。重臣たちは女真族の多く住む北方の領土化には消極的でした。
でも世宗はこの地の領有化を目指し金宗瑞(キム・ジョンソ)を派遣。豆満江の辺りに住む女真族のワルカ(兀良哈)部を討って四郡六鎮を設置しました。
鴨緑江のあたりは明の建州衛の配下になった女真族の多く住む地域でした。世宗は明に「防衛のための戦いである」と届け出をして鴨緑江付近の女真族を討伐。朝鮮と建州女真との間に争いが起こり明が調停する騒ぎになりました。
世宗が北部の土地にこだわったのは祖父・李成桂の出身地だったからともいわれます。祖先の土地を手に入れたかったのです。
ワルカ部は朝鮮の支配下に入り朝廷に貢ぎ物をしたり、朝鮮の街で商売をするようになりました。
世宗の時代に決めた国境線が現在の北朝鮮と中国の国境線になっています。
訓民正音(ハングル)の発明
10~15世紀の間。東アジアの各地では民族固有の文字をもとうと様々な文字が作られました。漢字を使い続けると中華文明に飲み込まれて固有の文化をもつ民族が消滅すると考えられたからです。
世宗も漢文が朝鮮語の文法と違い覚えるのが難しいので民族独自の文字を作ろうと考えました。そこで集賢殿の学者たちを集め新しい文字の開発を進めました。各国の様々な文字を研究させ明にも派遣しました。
様々な文字を研究した結果。古篆(蒙古新字)をベースにして書きやすいように自体を簡素化、朝鮮語の発音に合わせた改良が行われ、新しい文字が完成しました。
蒙古新字は蒙古篆字やパスハ文字とも呼ばれ、チベット文字を参考にモンゴル語を表現するために元朝で作られました。子音と母音の組み合わせからできる文字でした。高麗にも伝わっています。
ところが重臣たちから「昔から九州(中国全土のこと)は土地は違っても文字は同じだったのです。モンゴル、西夏、女真、日本、チベット、固有の文字を持つのはみな野蛮人です。話になりません」と反対されました。
そこで世宗は「字(漢字)の読めない愚かな民たちに正しい音を訓練させるもの。文字ではない」という理由で実用化にこぎつけました。それが「訓民正音」です。
1443年。重臣たちの反対を押し切って「訓民正音」が発表されました。
しかし両班たちが反対したので普及は進まず。諺文と呼ばれ、王族女性や一部の人、身分の低い人たちが使うだけになっていました。
後に訓民正音は改良されてハングル(偉大な文字)と呼ばれるようになります。ハングルは普及するのは20世紀になってからでした。今では韓国や北朝鮮の文字になっています。
世宗の最期
世宗は若い頃は肥満で長年様々な病気に悩まされていました。
1439年。喉の渇き、背中の浮腫、リンパ系の病気、眼の病気になり。その後、ほとんど目が見えなくなりました。通風にも苦しんでいました。症状からすると糖尿病になっていたようです。
1442年。世子李珦(後の文宗)を補佐するため詹事院を設立。
1444年。世子が臣下たちの前で挨拶をうけました。
1445年には譲位しようとしましたが。重臣たちの反対され実現しませんでした。妥協案として大臣の人事や軍事、刑罰などいくつかの事柄は世宗が決定して、他の事柄は世子が決定権をもつようにしました。
1450年3月30日。世宗が死去。享年54。
世宗は暦を作ろうとしたり、国境を広げようとしたり、独自の文字を作ったり。朝鮮民族の自主性を尊重しようとした部分があります。
でも、明に従順なところもあります。国力の差が大きく明に逆らえない分、こだわりのある部分以外では譲歩してできるだけ明に忠実になろうとしました。
世宗は一般に言われているほど聖人君主だったわけではありません。ひどい部分もあります。でも朝鮮の発展に尽くした王なのは間違いありません。
テレビドラマ
大王世宗 2008年、KBS 演:キム・サンギョン
根の深い木 2011年、SBS 演:ハン・ソッキュ
インス大妃 2011年、JTBC 演:チョン・ムソン
ポンダンポンダン 2016年、MBC 演:ユン・ドゥジュン
チャン・ヨンシル 2016年、KBS 演:キム・サンギョン
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