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神策軍・唐の皇帝を守り宦官の独裁を支えた精鋭部隊とは

唐朝 5.4 隋唐 臣下・人々

神策軍(しんさくぐん)は唐の中後期に首都・長安とその周辺を守った皇帝直属の軍隊(禁軍)です。

玄宗皇帝の治世の後半。唐の様々な制度が機能しなくなり、安史の乱も起こりました。唐がもっていた独自の禁軍(親衛隊・皇帝直属の軍隊)では宮廷の安全を守ることができなくなりました。

そのような時代に。国境を守る地方の軍隊から、唐の精鋭部隊になった集団がいます。それが神策軍です。ところが唐を守る一方で、宦官たちの独裁の道具にもなってしまいました。

唐の後半の歴史に影響を与えた神策軍とはどんなものだったのか紹介します。

 

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神策軍の歴史

玄宗皇帝の時代。

唐はチベット(吐蕃)と戦争していました。

天宝13年(754年)。隴右節度使の哥舒翰(かじょ かん)が唐の西北部を吐蕃から守るため8つの部隊の設立を提案。承認されました。その時作った部隊のひとつが神策軍です。

神策軍は磨環川(現在の甘粛省臨潭西南)にありました。哥舒翰は成如璆(せい じょきゅう)を神策使(部隊長)に任命しました。

755年。安史の乱がおきました。
中央を守る朝廷軍は次々に敗北。玄宗は西北国境の軍に援軍派遣を命令。
神策軍の衛伯玉(えい はくぎょく)は千人の兵を従えて援軍に向かいました。

朝廷は衛伯玉を「神策軍節度使」に任命。宦官の魚朝恩(ぎょ ちょうおん)を観軍容使(監軍:軍を監視する役目)につけました。

759年。安慶緒との戦いに敗れ陝州に撤退。このころには神策軍の本拠地はチベットに占領されていましたが、衛伯玉たちは「神策軍」を名乗り続けました。

代宗の時代。神策軍は魚朝恩の管理下におかれました。

763年。チベット(吐蕃)が長安に侵攻。都を守っていた禁軍は壊滅。代宗は陝州に避難しました。このとき魚朝恩がもとから率いていた神策軍に加えて、河西、隴右軍、安西、北庭軍を会わせて神策軍として編成されました。

チベットが撤退して代宗が長安に戻ると神策軍も代宗とともに首都にやってきて首都の守りにつきました。神策軍は正式に禁軍になりました。

神策軍はもともと戦いの最前線でチベットと戦うために編成された部隊です。実践経験が豊富で、都の周辺で平和になれきって堕落した部隊とは強さが全く違います。

神策軍は反乱鎮圧で手柄をたててますます皇帝から信頼される軍隊になり、兵力を増やしました。

神策軍の組織と規模

神策軍は皇帝直属の軍隊。守備範囲は広いです。
長安、奉天、武功、扶風、好畤、麟遊、普潤、興平、天興、戶縣、陝州等地。首都付近と国境付近を守っていました。チベット(吐蕃)からの防御と反乱の鎮圧でした。

神策軍は右軍と左軍の2つがありました。
最高の地位は「護軍中尉」
神策軍の将軍たちは護軍中尉の管理下にありました。

徳宗の時代には15万人の兵力をもっていたといいます。

神策軍の駐屯地には中央の役人の介入を受けない特権がありました。

政府高官の子や兄弟が入隊することも多かったのですが、彼らが実際に戦争に行くことはありません。戦うための兵力は徴兵で補っていて他の部隊の3倍の兵力がありました。

皇帝直属の軍隊のため、神策軍に加わりたい部隊もいて時代とともに神策軍の規模は大きくなりました。

宦官の道具になる神策軍

 

11代 代宗の時代。神策軍を率いる宦官の魚朝恩の力があまりにも大きくなりました。そこで代宗は魚朝恩を排除。その後は神策軍を武将に任せました。

12代 徳宗の時代。
783年。恩賞の不満で節度使が反乱。徳宗は長安を捨てて奉天に避難しました(涇原兵変)。このとき鎮圧にむかったはずの朱泚(しゅ せい)が反乱(朱泚の乱)。このとき神策軍を率いる李晟は反乱鎮圧に貢献しました。

この事件で徳宗は武官も文官も信用出来ないと考え、神策軍の指揮を宦官に任せることにしました。宦官の竇文場、霍仙鳴は徳宗に忠誠を誓い、左右の神策軍中尉に任命しました。

以後、神策軍は宦官が指揮することになり。宦官が政治に干渉する道具になりました。

 宦官は神策軍を使って朝廷の政治に干渉し、皇帝の廃位や幽閉を実行。宦官たちは自分たちに都合のいい皇帝を即位させるようになりました。

宦官の横暴を許した理由のひとつが神策軍です。

13代・順宗皇帝は宦官から神策軍の指揮権を奪おうとしましたが失敗。宦官に退位させられています。

14代・憲宗は宦官を使い節度使の力を抑え、禁軍を強化。節度使の力を弱めることには成功しましたが、宦官の力は更に強くなりました。憲宗は宦官に暗殺され15代・穆宗 が即位。宦官の横暴はひどくなり神策軍は堕落。

17代・文宗も宦官を排除しようとしたが失敗。宦官の監視下におかれました。

その後も宦官と神策軍の横暴は続きます。

 

神策軍の消滅

唐末期。各地で反乱が頻発。堕落した神策軍では各地で頻発する反乱は鎮圧できません。

このころ力をもっていたのが朱全忠(しゅ ぜんちゅう)のような強力な軍事力を持った藩鎮でした。彼らは朝廷から認められた節度使ですが、唐から独立して行動するようになりました。唐は長安とその周辺を支配する地方国家に転落してしまいます。

神策軍では朱全忠たち藩鎮にも対抗できません。

902年。22代・昭宗のとき。朱全忠が朝廷の実力者になると大臣や宦官を粛清。神策軍の兵士を左右の羽林、龍武、神武等六軍に編入。神策軍は消滅しました。

そして907年。朱全忠によって唐が滅ぼされ。後梁が建国します。

 

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