楊妃は10世紀の北宋の女性。
北宋の第3代皇帝真宗 趙恒の側室。
真宗の寵愛をうける劉皇后とは姉妹のように仲が良かったようです。
李氏の生んだ趙受益(仁宗)は劉皇后の子供として育てられました。実際に養育を担当したのは楊妃です。
第4代皇帝 仁宗 趙禎(受益)の育て親です。そのため仁宗 趙禎からは「小娘娘(小さいお母さん)」と呼ばれました。
死後、仁宗によって章恵皇后の諡号が贈られました。
史実の楊妃はどんな人物だったのか紹介します。
楊妃の史実
いつの時代の人?
生年月日:984年
没年月日:1036年
姓 :楊(よう)氏
名称:不明
国:宋(北宋)
地位:才人→婉儀→淑妃→太妃→保慶皇太后→皇后(死後追封)
称号:章恵皇后(死後追尊)
父:楊知儼
母:不明
夫:真宗 趙恒
子供:なし
彼女が生きたの北宋の2代太宗~4代仁宗の時代です
日本では平安時代になります。
おいたち
太宗の時代。
雍熙元年(984年)に誕生。
12歳のとき韓王 趙恒(後の真宗)の王府に入り側室になりました。
真宗の時代
998年。太宗が死去。真宗 趙恒が即位しました。
景徳元年(1004年)正月。楊氏は才人(正五品)になりました。
その後、婕妤(正三品)、婉儀(従一品)になりました。
真宗皇帝が東や西の山に封禅したときは同行しました。
真宗の側室・劉氏(野史では劉娥)とは姉妹のように仲が良く、二人の間には信頼関係がありました。
大中祥符3年(1010年)。李氏が趙受益(ちょう じゅえき)を出産。李氏が生んだことは秘密にされ、趙受益は劉娥が生んだ事になりました。劉氏は高齢(当時41歳)という理由で趙受益の養育は楊氏(当時26歳)が担当しました。
真宗は劉娥を皇后に、楊氏を淑妃に昇進させました。
趙受益の面倒は劉皇后と楊淑妃が二人でみました。そのため趙受益は劉皇后を「大娘娘」、楊淑妃を「小娘娘」と呼びました。(娘娘 はお母さん・貴婦人の意味)
1022年。真宗 趙恒が死去。仁宗 趙禎(受益から改名)が即位しました。
仁宗の時代
仁宗皇帝即位すると。劉皇后は「皇太后」、楊淑妃は「皇太妃」になりました。
即位したばかりの仁宗はまだ若かった(12歳)ので劉太后が摂政になり垂簾聴政が行われました。
劉太后は仁宗を非常に厳しく育てました。
あるとき仁宗が風邪にかかりました。劉太后は、咳や痰がからむというので仁宗がエビやカニなどの海産物を食べるのを禁止しました。
でも楊太妃は仁宗に甘く「皇太后はなぜこのように我が子を虐待するのか」と言って仁宗に食べさせました。
その結果、仁宗は劉太后にはあまり懐かず、楊太妃に懐きました。
明道2年(1033年)。劉太后が死去。
死の間際。劉太后は「楊太妃を敬い皇太后にしなさい。そして政のことも相談しなさい」と言い残しました。
劉太后の死後、楊太妃は「保慶皇太后」に昇格しました。しかし楊太妃は劉太后と違って政治には興味はもたず仁宗の好きなようにさせました。
景祐3年(1036年)。楊太后が死去。享年53歳。
「荘恵皇后」後に「章恵皇后」の諡号が贈られました。
テレビドラマ
将軍在上 2017年、中国 演:李丹飾
孤城閉 2020年、中国 演: 役名:楊太妃
大宋宮詞 2021年、中国 演:周雪菲 役名:楊瓔珞(よう・ようらく)
最初は劉娥の侍女として登場。
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