ソンゴトゥ(索額図)康煕帝を助けた功労者が罪人になったわけ

大清1.8.3 清の人びと

ソンゴトゥ(索額図)は清朝の政治家。

第4代・康煕帝に仕えた重臣です。

索額図はさまざまな功績をあげた有能な臣下でした。康煕帝からも信頼されていました。ところが康煕帝との意見の違いや、皇太子をめぐる派閥争いなどで康煕帝の信頼を失います。

ソンゴトゥ(索額図)はどのような人物だったのか紹介します。

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ソンゴトゥ(索額図) の史実

いつの時代の人?

生年月日:1636年
没年月日:1703年
享年:68

姓:赫舍里(ヘシェリ)
名:索額図(ソンゴトゥ)

旗籍:正黄旗
父:索尼(ソニン)
母:富察氏 

妻:佟佳氏

子供:9人

ソンゴトゥ(索額図)が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康熙帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1636年(崇德元年)。盛京(現在の瀋陽)で生まれました。

父は 満洲正黄旗の旗人(貴族)索尼(ソニン)
母は索尼(ソニン)の妾・富察氏。

索額図(ソンゴトゥ)はソニンの三男でした。

父ソニンのおかげで侍衛(親衛隊)になりました。

1661年(順治18年)。順治帝が死去。8歳の玄燁(康熙帝)が即位しました。

父ソニンや重臣のオボイ(鰲拝)たちが康煕帝を支えました。

1665年(康熙4年)。赫舍里(ヘシェリ)氏が皇后になりました。皇后 赫舍里氏はソニンの孫娘。索額図(ソンゴトゥ)の姪です。索額図(ソンゴトゥ)は康煕帝の外戚になったのです。

康熙帝の時代

オボイの排除に貢献して出世

1667年(康熙6年)。父ソニンが死亡。重臣たちのバランスをとっていたソニンがいなくなり重臣オボイの横暴が目立つようになります。でも若い康煕帝はどうすることもできません。

1668年(康熙7年)。ソンゴトゥは一等侍衛(親衛隊)になりました。

1669年(康熙8年5月)。康煕帝とともにオボイと彼の仲間を逮捕しました。康煕帝は自分で政治を行うことができるようになりました。

1669年(康熙8年8月)。ソンゴトゥはその功績で国史院大学士になりました。皇帝の命令を伝える秘書のような役目です。

1670年(康熙9年)。保和殿大学士と戸部尚書になりました。康煕帝の側近の中でもトップになりました。わずか4年で親衛隊から大臣です。急激な出世でした。

三藩の乱で康煕帝と意見が対立

1673年(康熙12年)。康煕帝は三藩の廃止を決定。ソンゴトゥは反乱が起きるかもしれないので廃止を思いとどまるように言いました。康煕帝はいつか反乱するのだから今のうちに潰してしまおうと。廃止の決意は変わりません。この間も、納蘭 明珠と富察 米思翰は康煕帝に賛同して三藩の廃止を主張しました。

その後、呉三桂ら三藩が反乱を起こしました。この反乱は鎮圧に8年かかりました。

三藩の乱を鎮圧後。明珠と米思翰は康煕帝から称賛されました。米思翰は1775年に他界していました。

皇太子・胤礽の誕生

1674年(康熙13年)。皇后 赫舍里氏が皇子・胤礽を出産しました。ところが難産で赫舍里氏は死亡してしまいます。

1676年(康熙15年)。胤礽が皇太子になりました。

索額図(ソンゴトゥ)は皇太子・胤礽の強力な後ろだてになりました。

納蘭 明珠との対立

三藩の乱の対応で康煕帝の信頼を得た明珠は、索額図(ソンゴトゥ)のライバルになりました。

康煕帝時代の前半はこの2人が朝廷で大きな力を持っていました。

1683年(康熙22年)。康煕帝は索額図(ソンゴトゥ)が不祥事を起こしました。索額図(ソンゴトゥ)は彼らを監督できなかったこと。富を蓄え傲慢になっている。などの理由で役職を解任しました。

1686年(康熙25年)。侍衛內大臣になりました。

1687年(康熙26年)。明珠の汚職がみつかり降格になりました。

このように康煕帝は誰かが独占的な力を持たないように重臣同士を競わせたり理由を見つけては解任しました。

はじめての国際法

1689年(康熙28年)。康煕帝の命令をうけて索額図(ソンゴトゥ)はロシアと交渉を行いました。「ネルチンスク条約」が結ばれ清とロシアの国境が決まりました。中華王朝がヨーロッパ諸国と結んだ初めての国際条約です。世界のすべてが中国のものと考える中華思想では外国との対等な交渉はありえません。当時の清国内ではとても評判が悪かったのです。

でも清朝末期に清は欧米列強と不平等条約を結ばされてしまいました。そのときになってネルチンスク条約が「成功した交渉だった」と評価されることになります。

ジュンガルとの戦争

1690年(康煕29年)ジュンガル帝国との戦争が始まりました。

康煕帝は自ら遠征軍を率いるとともに別働隊には裕親王福全を司令に任命。索額図(ソンゴトゥ)、佟國維、明珠たち重臣も遠征に参加しました。

ところが補給部隊を引き連れて移動しなければいけない中華王朝の軍では、平原地帯で高速で移動する騎馬軍団を追撃するのはかなり難しい作戦でした。

福全率いる清軍はジュンガルの君主ガルダン・ハーンの軍団におきつき攻撃。清側も佟國維が戦死するなど苦戦しましたが、戦いに勝利しました。ところが停戦交渉中にガルダン・ハーンに逃げられてしまいます。清軍はガルダンの追撃を諦めました。

戦いのあと。撤退を主張した索額図(ソンゴトゥ)たちは康煕帝から非難され降格になりました。

1696年(康熙36年)。康煕帝はガルダンとの決着をつけるため遠征。索額図(ソンゴトゥ)も出陣しました。清軍はガルダンを追い詰めましたが、戦いの最中にガルダンは病死。ジュンガルは滅亡しました。

引退

1701年(康熙40年)。年老いたため引退。

1703年(康熙42年)。索額図(ソンゴトゥ)は逮捕され監禁。獄中で死亡しました。

索額図(ソンゴトゥ)の兄弟や一族も次々に捕らえられました。

死後、康煕帝は索額図(ソンゴトゥ)を罪人扱いして何度も非難しました。

索額図(ソンゴトゥ)の死を招いたもの

なぜ康煕帝は引退した功労者を罪人扱いしてわざわざ捕まえて殺したのでしょうか?もちろんこの時代の政治家ですから叩けばいくらでもホコリは出ました。でも康煕帝が問題にしたのはそれだけではありません。

索額図(ソンゴトゥ)とその一族は皇太子・胤礽を支持していました。胤礽を助けるために仲間を増やしました。皇太子を中心にした派閥ができあがります。

でもちやほやされた胤礽は横暴な行動も目につくようになります。康煕帝は不満でしたが胤礽は可愛いので処罰したくありません。

康煕帝は「皇太子・胤礽の素行が悪いのは索額図(ソンゴトゥ)のせい」と考え、索額図(ソンゴトゥ)の排除と派閥を壊そうとしました。

ところが強力な支持者を失った皇太子・胤礽は他の皇子を支持する派閥から誹謗中傷を受けます。評判を落とし、謀反の噂までたてられた胤礽は1708年(康煕47年)に廃位になってしまいます。

康煕帝は臣下たちが派閥を作るのを嫌いました。大きな派閥は皇帝以上の力を持ちます。歴史をみると重臣たちの力に負けていいなりになった飾り物の皇帝はいくらでもいます。そして派閥争いを繰り返す王朝は必ず滅亡しました。康煕帝はそれを繰り返したくなかったのです。

ところが索額図(ソンゴトゥ)がいなくなっても派閥争いは終わりません。皇帝の座をめぐる争いがますます激しくなってしまったのでした。

TVドラマ

龍珠伝 2017年、中国 演:盧星宇
花散る宮廷の女たち 2017年、中国 演:白紅標
宮廷の茗薇 2019、中国 演:鄧立民

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