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年羹堯|雍正帝によって自害に追い込まれた清の将軍

4.7 清・金

年羹堯(ねん・こうぎょう)は清朝(正式名は大清国:ダイチングルン)の軍人。

妹は第4皇子胤禛(いん・しん、後の雍正帝)の側室。チベット遠征でジュンガル軍と戦い功績をあげました。

雍正帝の即位にも協力したといわれます。

年羹堯自身は有能な将軍でしたが、なぜか雍正帝の即位後に自害に追い込まれます。

史実の年羹堯(ねん・こうぎょう)はどんな人物だったのか紹介します。

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年羹堯の史実

生年月日:1679年
没年月日:1726年

名称:年羹堯(ねん・こうぎょう)
称号:
父:年遐齡
母:
正室:納蘭性徳の娘
継室:宗室輔國公蘇燕の娘

妹:敦粛皇貴妃年氏

子供:3男1女

彼が生きたのは17~18世紀にかけて。清王朝の4代康熙帝~5代雍正帝の時代。

日本では江戸時代になります。

康熙帝の時代

年氏の家系は明の時代から続く名門。

清の時代には漢軍旗人という漢民族の貴族でした。

父・年遐齡は兵部主事、刑部郎中、湖廣巡撫などを務めた重臣です。

1679年(康熙18年)。年遐齡の次男として生まれました。

1700年(康熙39年)。科挙に合格して官職に就きました。

1709年3月(康熙48年)。第四皇子の胤禛(いん・しん)が和碩雍親王になりました。鑲白旗3千人ほどを率いる旗王になります。

年羹堯は胤禛の配下になりました。

妹の年氏(敦粛皇貴妃)が雍親王の福普(低い地位の側室)になりました。

1709年10月。四川巡撫(知事)になりました。

1715年までに妹の年氏が雍親王の側室になりました。

チベットでの戦い

康熙56年(1717年)。チベットにジュンガル国のツェレン=ドンドプ将軍率いるジュンガル軍が侵入。ジュンガルはモンゴル系遊牧民のオイラト族が作った国です。ジュンガル軍はチベットのラサを占領。しかしジュンガルは横暴だったため、チベットがジュンガルを追い出すよう康熙帝に要請。

チベットに清軍が派遣されました。しかし四川提督の康泰が率いた清軍は敗退します。

康熙57年(1718年)。年羹堯は四川総督になります。

チベットにいすわるジュンガルを討伐するため再び清軍が編成。総司令官は第14皇子の胤禵でした。年羹堯は胤禵の作戦を支援してジュンガル軍と戦いました。

清軍はチベットからジュンガルを追い出すことに成功します。

年羹堯は清に凱旋。康熙帝から称賛されます。

康熙60年(1721年)。陝西と四川の総督になりました。

雍正帝の時代

雍正元年(1723年)。康熙帝が死去、胤禛(いん・しん)が皇帝(雍正帝)になりました。

年羹堯ねん こうぎょうは太保になります。皇帝を補佐する重役です。兄弟の年希堯も広東の知事になりました。

チベットで青海ホシュートが蜂起。青海ホシュートはもとはオイラト族の一部ですが青海に移り住んだため青海ホシュートと呼ばれます。

年羹堯ねん こうぎょうは鎮圧軍の総司令官になりました。司令の岳鍾琪がくしょうきらと強力、数ヶ月かけて青海ホシュートの反乱を鎮圧しました。青海を清の領土にします。

雍正帝は功績を高く評価して、年羹堯に一等公の爵位を与えました。

雍正4年(1724年)。年羹堯は首都・北京に戻り雍正帝に謁見。雍正帝はさらに特権を与えました。

雍正帝との関係が悪化

しかし急激に出世した年羹堯に人々の反感が集まります。多くの人々が年羹堯を告発しました。

雍正帝も年羹堯に対してしだいに不信感を持つようになります。

第9皇子胤禟と密かに通じていたという「証拠」も見つかりました。胤禟は王族の地位を奪われ監禁ののち死亡します。

雍正3年(1725年)2月。年羹堯は忠誠心をしめすため雍正帝を祝福する手紙を送ります。

4月。しかし雍正帝は文章に言いがかりをつけて「年羹堯は利己的で、皇帝を軽蔑している」と批判。年羹堯を総督から解任して杭州将軍に降格させます。

漢字は様々な意味をもたせることができるので、文章を様々に解釈することができます。書いた本人が意図していない悪い意味に解釈することもできます。中には本当に揶揄している場合もあるのですが、読み手が悪く解釈することが多かったようです。文章を悪意で解釈して書いた相手を陥れることもありました。これを「文字の獄」いいます。雍正帝はよく行いました。

かわりに四川と川陝総督になったのは岳鍾琪がくしょうきでした。

7月には杭州将軍も解任されました。かわりに杭州将軍になったのは鄂彌達でした。

短期間の間にどんどん位が下がっていきました。

11月。妹の敦粛皇貴妃年氏が死亡

謎の処刑

雍正3年12月(1726年1月)。年羹堯は九十二大罪を理由に軟禁されます。主な理由は、罪のない人々を殺した、職権乱用、自分の派閥の結成、横領などです。

雍正4年1月(1726年)。死罪が確定。賜死(毒を飲んで死ぬこと)しました。功臣なので斬首は免れたのでしょうが事実上の死刑です。長男の年富は斬首され、他の子供達も追放されました。

雍正帝に重用されていた年羹堯がなぜ死罪になったのかはよくわかっていません。

もともと年羹堯は部下に対して非常に厳しい性格で規律を乱す者を厳罰をあたえることもありました。軍の内部には年羹堯への不満があったともいわれます。

本来、康熙帝は14皇子を後継者にしようと考えていたと言われます。雍正帝の即位には遺言が偽造されたという疑惑ももたれていました。年羹堯は雍正帝の即位に協力したといわれます。彼の即位に協力したためであるともいわれます。

雍正帝は即位後も兄弟やその関係者を次々処刑したり自害に追い込みました。年羹堯の死も雍正帝の地位を守るための粛清だったのかもしれません。

いずれにしろ。有能で皇帝からの信頼も厚かった年羹堯が雍正帝から疎まれて死亡した理由はよくわかっていません。ドラマ化されるときには年羹堯の描かれ方を見比べるのも面白いと思います。

4.7 清・金
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中国韓国歴史ドラマの史実

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