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海蘭察 戦いに生きたエヴェンキの将軍

4.7 清・金

海蘭察(ハイランチャ)は清朝の乾隆帝時代に活躍した将軍です。

勇猛果敢なエヴェンキ族の多拉爾(ドラル)氏出身。海蘭察(ハイランチャ)は、乾隆帝が命じた数々の戦いに参戦、多くの手柄をたてました。

ドラマ「瓔珞」でも富察傅恒の友人として登場しますが。実際には戦場でいることの多い武将でした。

史実の海蘭察はどんな人物だったのか紹介します。

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海蘭察(ハイランチャ) の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1793年

姓:多拉爾(ドラル)
名:海蘭察(ハイランチャ)
諡:武壮 
父:不明
母:不明
妻:不明

子供:安祿、安成

清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

エヴェンキ族の戦士

海蘭察(ハイランチャ)はエヴェンキ(鄂溫克)族出身です。

彼の一族はアムール川(黒龍江)に近いフルンボイル地方(現在の内モンゴル自治区フルンボイル市)で暮らしていたといます。

エヴェンキは「森に住む人」という意味。主に狩猟とトナカイの牧畜で暮らしている狩猟遊牧民族でした。シベリアから東アジア北部で暮らすツングース系民族のひとつと考えられています。

清ではソロン(索倫)族と呼ばれていました。清朝では勇猛で戦上手なエヴェンキ族を兵士として採用。ソロン八旗が編成されました。

清朝も半ばに来ると満洲族は漢人化が進み軟弱になっていました。エヴェンキ族は満洲族が失いつつあった勇猛さをもっていたので清朝では重宝されました。そのため多くのエヴェンキ族男性が兵士として動員されました。

海蘭察(ハイランチャ)も非常に勇敢な兵士だったといいます。

清・ジュンガル戦争で手柄をたてて近衛兵に昇進

1755年(乾隆20年)。ソロン兵の一人としてジュンガル帝国との戦争に参加しました。ジュンガルとは遊牧民オイラト族が作った国です。すでに衰退が始まっていたジュンガルに対して乾隆帝は満洲・モンゴルの大部隊を送り込んでジュンガル帝国を滅ぼしました。

海蘭察(ハイランチャ)はこの戦いで敵将バヤール(巴雅爾)を生け捕りにする手柄をたてたました。この戦いで一番の手柄だと認められ 二等侍衛(近衛兵)になりました。

1758年(乾隆23年)。乾隆帝の狩りに付き従い2頭の虎を射殺。乾隆帝の危機を救いました。

その後も功績を重ね 一等侍衛(近衛兵) に昇進しました。紫光閣に肖像画が飾られました。

敗色濃厚の清緬戦争(しんめんせんそう)で健闘

1765年。ビルマ族のコンバウン王朝と清朝との間に戦争が起こりました。

乾隆帝は2回軍を派遣しましたが、熱帯地方のミャンマーの気候やゲリラ戦に悩まされ敗退。

1767年(乾隆32年)。乾隆帝は3回めの軍を派遣。海蘭察(ハイランチャ)はこの戦いに従軍しました。

この戦いでも清軍はゲリラ戦に悩まされます。

海蘭察(ハイランチャ)は300の少数精鋭を率いて戦いました。少ない兵をたくみに使って奇襲作戦で対抗しました。

清軍は全滅に近い敗退。将軍の明瑞は責任をとって自害しました。負け続けの清軍の中で数少ない健闘でした。

1769年(乾隆34年)。鑲藍旗蒙古副都統(モンゴル鑲藍旗軍の副長官)になりました。

金川の戦い

四川で反乱が起こりました。四川ではチベット系部族が多くいました。各部族を土司(トシ)といわれる部族長が治めていました。

1771年(乾隆36年)。有力な部族の大金川が清に反乱を起こしました。

乾隆帝は将軍の温福(ウェンフー)に鎮圧を命じ数万の軍を派遣しました。海蘭察(ハイランチャ)は鑲白旗蒙古副都統(モンゴル鑲白旗の副長官)になり従軍しました。

温福率いる清軍は大金川土司のソノム(索諾木)率いる大金川の奇襲やゲリラ戦に敗退。大金川は峡谷のある山間部。大軍の行動には不利な場所でした。清軍は将軍の温福が討ち取られ大混乱。海蘭察(ハイランチャ)は残った清軍をまとめて撤退しました。

その後、清軍も兵力を増やす一方で、少数精鋭のゲリラ戦で対抗。海蘭察(ハイランチャ)は少数精鋭の部隊を率いて出撃を繰り返し大金川側の砦を落としていきました。

6年間続いた戦いは最終的には清が勝利しソノムは処刑されました。

清は膨大な犠牲をだしつつもようやく平定。

1776年(乾隆41年)。海蘭察(ハイランチャ)は金川平定の功績で 一等超勇侯 の爵位が与えられました。

1778年(乾隆43年)。領侍衛内大臣(近衛師団長)に任命されました。

ジャフリーの反乱鎮圧

甘粛ではイスラム教徒のサラール族が多く住んでいました。サラール族の間でジャフリー派という新しい宗派が流行りました。ジャフリー派は古い宗派のフフィー派との間で激しく対立しました。

1781年(乾隆46年)。ジャフリー派とフフィー派の間で武力衝突が起こりました。

当局は教祖の馬明心を逮捕しました。すると弟子の蘇四十三はジャフリー派を率いて武力蜂起しました。馬明心を処刑したところ反乱は更に拡大しました。

乾隆帝は反乱鎮圧のため阿桂(アグイ)将軍を派遣しました。海蘭察(ハイランチャ)は福康安(フカンガ)とともに阿桂(アグイ)将軍のもとで鎮圧を任されました。反乱の首謀者・蘇四十三が戦死して一旦は収まりました。

1784年にも反乱が起こりました。海蘭察(ハイランチャ)は尚書福康安(フカンガ)とともに鎮圧を任されました。各地で反乱が怒るので鎮圧に数ヶ月かかりましたが反乱軍の大部分を殲滅しました。

台湾平定

1787年(乾隆51年)。台湾で林爽文(りん そうぶん)が反乱を起こしました。林爽文は天地会の指導者でした。「天地会」と名乗る組織は内部では「洪門」と言われます。「女真族を倒して漢民族の国を再興させる」のが目的の秘密結社です。天地会は台湾のほとんどの役所を支配下にいれるほど勢力を広げました。

11月。福康安と海蘭察が率いる討伐軍が台湾に派遣されました。地元民の協力も得ながら反乱鎮圧に1年4ヶ月かかりましたが、林爽文を捕らえ北京に送りました。林爽文は処刑されました。

しかし洪門は秘密組織なのでその後も残り続けました。後に清朝を打倒する孫文や蒋介石も洪門のメンバーです。中国王朝の打倒活動には多くの場合、秘密結社や宗教組織が関わっています。

清・ネパール戦争

1791年(乾隆56年)。ネパールのゴルカ朝がチベットを攻撃。チベットは略奪をうけました。

1792年(乾隆57年)。チベットは宗主国の清に救援を要請。乾隆帝は福康安と海蘭察に1万5千の兵を与えてネパールを攻めさせました。清軍はネパール軍相手に優位に戦いを進めましたが、被害も大きく10月に和平を結びます。

ゴルカ朝は清の朝貢国になりました。

この戦いでも山岳地帯の戦闘で福康安が率いる大軍は苦戦しました。でも海蘭察率いる少数精鋭の部隊は敵部隊の弱い部分をつく作戦を行いゴルカ軍を敗走させました。

1793年(乾隆58年)3月。海蘭察は病気のため自宅で死去。乾隆帝は海蘭察に「武壮」の称号と「一等超勇公」の爵位を与えました。紫光閣に肖像画が飾られました。 

ドラマ

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
 演:王冠逸

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