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明の洪武帝 朱元璋 は何をした人なの?

朱元璋 2.1 明の皇帝・皇子

洪武帝(こうぶてい) 朱元璋(しゅ・げんしょう)は明の初代皇帝。
太祖ともいいます。

元朝の末期に貧しい農家の子として生まれ、紅巾軍に入り出世。華南の地で勢力争いに勝ち残り。皇帝になり、明を建国しました。

明から皇帝一代につき年号は一つと決められました。なので朱元璋の時代には洪武の年号しかありません。

そのあため朱元璋は 洪武帝ともいわれます。

この記事では明の建国から洪武帝 朱元璋が没するまでを紹介します。

 

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朱元璋の史実

いつの時代の人?

生年月日:1328年10月29日
没年月日:1398年6月24日
享年:69歲

姓:朱(しゅ)
名:元璋(げんしょう)
字:國瑞

国:明

父:朱世珍
母:陳氏
妻:馬皇后

子供:

日本では室町時代になります。

洪武帝 朱元璋 の行ったこと

呉2年(1368年)正月4日。朱元璋は応天(南京)で皇帝に即位。国号を「明」、元号を「洪武」と決めました。その年の間に大都(北京)を攻めさせて占領。名を北平と改めました。

元の皇帝や臣下たちはモンゴル高原に帰り、モンゴル人による支配は終わりました。朱元璋の目指した「漢唐の栄光を取り戻す」ことが達成できたのです。

明の制度は元を受け継ぐ

中原では王朝が元から明に代わりましたが。最初は明の制度は元の制度をそのまま使っていました。

でに存在している制度を丸ごと変えることはできません。洪武帝 朱元璋がいくら「漢唐の栄光を取り戻す」と言っても中身は元のままだったのです。

でもそれでは朱元璋のプライドが許しません。モンゴル式の髪型や服装、名を名乗るのは禁止。モンゴルの感触は遊牧民式で右が左より上でしたが。中華風に左が右より上に改めました。

でも朱元璋は見た目を変えただけでは満足しません。

独裁を強める

元では中央に中書省という強力な権限を持つ組織があり、右相・左相が皇帝を補佐していました。元は皇帝の権力が弱く重臣の力が強い国でした。遊牧民は強権的な独裁者を嫌います。その反面・短命な王朝で終わることも多いのです。

洪武帝は皇帝に権力が集まるしくみに作り変えました。中書省を廃止、各組織に皇帝が直接命令を出すようにしました。軍も全体を管理する大都督府を廃止。5つの方面軍に分割して皇帝が直接命令を出す形にします。

もちろん直ぐにできたわけではなく、洪武帝は年月をかけて中央集権化を進めました。

かつての仲間を粛清

洪武帝は組織変更とともに、紅巾軍時代からの仲間を次々と粛清しました。それも有力な臣下を次々と消していき、皇帝の独裁を強めました。

洪武帝がここまで独裁にこだわったのは。洪武帝自身の出自が身分が低く、代々仕える信頼できる家臣がいないこと。朱元璋のいた紅巾軍が白蓮教や盗賊、荒くれ者の集まりだったことが影響しています。今でいえばタリバンやISみたいなものです。

朱元璋は実力で地方の武装集団から皇帝に上り詰めました。逆に言えば他に力のある者がいれば朱元璋に取って代わることもできます。他人は信じられない、信じられるのは自分の力と身内だけでした。

犠牲者の数は3万とも5万人ともいわれます。

こうして皇帝に権力が集まり、朱家を脅かすものはいなくなりました。逆に有能な臣下も激減。人材不足になります。

後に建文帝は叔父の燕王に敗れてしまいますが。建文帝が敗れた理由のひとつが人材不足でした。

恐怖政治

洪武帝は仲間を粛清しただけでは安心できません。様々な手段を使って皇帝の地位の維持と支配を強めました。

錦衣衛の設置

もともとは朱元璋の親衛隊。皇帝に即位後は謀反人を取り締まり・処罰する権限を与え秘密警察のような役目も持たせました。洪武帝は錦衣衛を使って怪しいものを取り締まり、

皇帝直属で警察とは別の命令系統で動いています。旧ソ連の「KGB」みたいなものです。錦衣衛に睨まれたらまず助からない。人々に恐れられました。

三跪九叩頭の開始

跪いて3回頭を地面につける。それを3回繰り返すこと。皇帝への服従を誓う儀式です。洪武帝は臣下にこれを義務付けました。視覚的にも肉体的にも皇帝に服従していることを表現しなくてはいけません。

それまでも臣下が皇帝の前で跪くことはありましたが。三跪九叩頭を始めたのは洪武帝といわれます。

廷杖

明朝以前から罪人を棒で討つ刑罰はありましたが。洪武帝は宮廷の中で臣下に対して廷杖を実施。廷杖をするかどうかは皇帝の判断次第。あまり怒らすことを言うと廷杖になってしまいます。

かなり厳しく討たれたらしく廷杖で命を失う人もいました。これでは皇帝に厳しい意見を言う人がいなくなってしまいます。

その後の建文~宣徳帝時代には廷杖の記録は残っていませんが。その後は復活したようです。

文字の獄

洪武帝は知識人が嫌い。文書を使って皇帝を批判するものを徹底的取り締まりました。批判していなくても洪武帝が自分を批判していると思えばそれだけで逮捕されます。こじつけのような逮捕も多く。おかげで明朝の知識人は萎縮してしまいます。

 

農村の回復と安定化

元が滅んだ理由の一つに災害や重税のため農村から人が減って流民が増え生産が落ちて治安が悪化したことでした。

そこで洪武帝は流民を農村に戻して開墾を奨励。開いた土地には農民を移住させ、開拓した土地の所有を認めました。各地で条量(検地)を行い戸籍を作成。大規模な灌漑・治水工事を行い。大地主が土地を独占するのを禁止しました。

こうして元末に落ち込んでいた生産は回復。明の経済の発展の基礎ができました。

農村を110戸ごとにまとめて管理。税を集めさせました。

元時代は徴兵はありませんでしたが、明では徴兵制を採用してます。

「聖諭六言」を発行。これは儒教の教えをわかりやすくしたもの。親孝行や年長者を敬うことなど人として守るべき教え民に広めました。明末清初期に「聖諭六言」をもとにした「六諭衍義」が作られ、江戸時代に日本にも採用され昭和まで影響を残しています。

民を精神的にもコントロールするやり方は朱元璋が白蓮教に触れて学んだことかもしれません。

社会は物質的にも社会的にも安定しましたが。官(皇帝を中心にした役人)による民の支配が一層進みました。

洪武帝の対外政策

元との戦い

元朝は中原からは撤退したものの、モンゴル高原では大きな勢力を保っていました。元を討つため何度か遠征軍を派遣しています。ココテムルの死後は元軍は大きな軍事活動ができずにいました。それでも洪武帝は元皇帝の捕獲と滅亡を狙って何度も軍を派遣しました。

洪武21年(1388年)には藍玉率いる明軍が皇帝トグステムルの軍を撃破。トグステムルは逃亡しましたが後に死亡。クビライの皇統は途絶えました。

チンギス・ハンの子孫は他にもいてハンに即位、自らをモンゴルと名乗っていますが。明は「元(モンゴル)が滅亡した」と判断。以後、明の歴史書には「蒙古(モンゴル)は登場せずモンゴルは「韃靼」と書かれるようになります。

朱元璋としてはモンゴルを駆逐して中華を漢人に取り戻すのを大義名分にしています。モンゴルが生き残っている間は朱元璋の目的は達成されません。例えモンゴルが生き残っていても滅んだことにしなければいけないのです。

倭寇対策

14世紀後半。日本近海では倭寇が暴れていましたが。中国大陸が混乱している間に倭寇が中国近海に出没。朱元璋に従うのを嫌った方国珍たち反明勢力が倭寇と結託。朱元璋に抵抗していました。

そこで洪武帝は「海禁」を実施。商人や民衆が海に出て貿易するのを禁止。沿岸に基地を作り沿岸部の防衛を固めました。さらに日本に取り締まりを要請しますが日本も南北朝に分かれて争っていたので取り締まりが進みません。

倭寇の問題はモンゴルの問題がひとまず落ち着いたあとも続き。洪武帝を悩ませませました。

海禁(鎖国)

民衆が沿岸部の反明勢力や倭寇と遭遇するのを防ぎ、国の防衛を目的に始めた海禁でしたが。当初は国の許可を得た民間貿易は認められていました。

しかし洪武帝は民間貿易も禁止。貿易は国家間の朝貢だけに制限。鎖国状態に入ります。

貿易のトラブルが海賊行為に発展することがあるので、海禁はトラブル防止もありますが。洪武帝は周辺国を明を中心にした秩序に組み込もうとしました。

朝貢貿易は明のメンツを保つだけに行っているので採算度外視。そうまでして明が元に変わって天下の主に君臨することをアピールしたかったのです。

海禁は当初は防衛のための手段でしたが、やがて明中心の国際社会秩序作りの手段になってきたのでした。

そのため元時代のような活発な海外貿易は減るものの、密輸は絶えませんでした。

 

晩年の後継者問題と最期

洪武帝の後継者

洪武帝は長男・朱標を皇太子に任命。後継ぎとして期待していました。

ところが洪武25年(1392年)に皇太子 朱標が死亡。

朱標の息子・朱允炆はまだ若く、燕王 朱棣を推す重臣もいましたが。洪武帝は朱標の息子・朱允炆を皇太孫に任命しました。

朱允炆を皇太孫に任命した直後、藍玉たち臣下を粛清しています。

 

洪武帝の最期

洪武31年(1398年)。洪武帝が死去。享年71(満69歳)。

 

洪武帝 朱元璋は農民の子に生まれて皇帝になりました。中国史上最大の出世者です。それだけの能力や人を惹きつけるものがあったのでしょう。朱元璋が建国した明朝は約300年続きました。その基礎を作った朱元璋の功績は大きいのですが。国の統一と繁栄を目指した政策と共に、過剰な粛清と独裁がもたらした負の側面もあったといえます。

 

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