涇陽王 朱見溢(しゅ・けんいつ)明朝時代の皇族。
涇陽安靖王 朱祁銑の三男。洪熙帝の曾孫でした。
朱見溢は日頃の行いが悪く、爵位を取り上げられ庶人に落とされてしまいます。
中国ドラマ「六扇門」の斉王 朱見溢のモデルになった人物です。史実の朱見溢は「斉王」ではなく「涇陽王」でした。
史実の朱見溢はどんな人物だったのか紹介します。
朱見溢の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1503年
名前 :朱見溢(しゅ・けんいつ)
国:明
称号:涇陽王
父:朱祁銑(涇陽安靖王)
母:張氏(涇陽王妃)
妻:郭氏
日本では室町時代になります。
おいたち
生年は不明。15世紀の中ごろと思われます。
父は涇陽安靖王 朱祁銑
母は涇陽王妃 張氏
見溢は三男でした。
成化4年(1468年)3月。彼に「見溢」の名前が与えられました。
涇陽王の世子(後継者)になりました。
ところが世子になってからも性格は頑固でふしだらな生活を送っていました。
見溢の母の涇陽王妃 張氏は何度も彼を叱って教育しました。でも彼はなかなか聞き入れようとしません。
母の死後。見溢は犬を殺して布の敷布で覆って埋葬。お供物をして祭祀を行いました。犬を祀ることで母への不満を示したのです。
憲宗皇帝は母を失った見溢を哀れんで見舞いましたが。なんと見溢はその後、喪の期間を破って街に出て人々に危害を加えました。
弘治元年(1488年)。父の安靖王・朱祁銑が死亡。
涇陽王になる
弘治四年(1491年)。朱見溢は父の爵位を継ぎ、第二代目の涇陽王になりました。見溢は爵位を継承した後もさらに淫乱で残忍になります。
見溢の身の回りにいる者たちも見溢に負けず劣らずな悪党でした。
朱見溢は側近の王錦や身の回りの者たちの言葉にそそのかされ。喪の期間中でも何度も娼妓を呼び寄せて乱行を繰り広げ、妃である郭氏の服を奪いました。妃が跪いて涙を流し諫めると、見溢は怒って彼女に暴行を加え、食事を絶たれ郭氏は死亡しました。
さらに見溢は従婢を殺害。校尉の陳玉にそそのかされて母の妹をむりやり妾にしました。
見溢は酒食が好きでしたが、料理人の自己負担で食材を調達させたので料理人は負担に耐えかねて自殺しました。
また見溢には多額の借金があり返済できないままになっていました。
さらに見溢は朝廷には行きませんでした。
弘治8年(1495年)。たまりかねた妃の兄・郭信が見溢を訴えました。巡察官が調査。見溢の罪が明らかになり都察院が告発しました。
皇帝は「見溢は荒淫で不孝者であり、群小の言葉に耳を貸し、人を死に追い込み、法に違反して多くの悪事を犯した。」と言って爵位を取り消し、頭巾を被り、謹慎するように命じました。
鄭王に監視するように命じました。
さらに見溢を唆した陳玉ら16人は全員が辺境の軍に配属され戻ってくることはありませんでした。
その後、鄭王 朱祐枔は朱見溢の爵位復活を朝廷に申請しました。でも弘治帝は「見溢の爵位を取り消してからまだ時が経っておらず、悔い改めることができるかどうかは分からない。とりあえずそのままにしておこう。」と言って居しました。
弘治16年(1503年)。6月、朱見溢は死亡。最終的に庶人に廃されたまま、後継ぎもいなかったので涇陽王の系譜は消滅しました。
テレビドラマ
六扇門 2016年、中国
演:方中信(アレックス・フォン)
役名:斉王
史実では涇陽王ですが、ドラマでは斉王。
涇陽王は皇帝の弟ではなく皇族の一人。皇位継承争いには関わっていませんが。斉王は皇帝の弟で皇子と後継者争いをするという設定。
皇帝の弟。蘇溢清の養父。
皇帝が重病になり山東から都に戻る途中で何者かに襲撃されました。皇子派や大臣の劉吉とは対立しています。
ドラマの前半では善人のように描かれますが、次第に野心が明らかになります。
コメント