朱友貞は古代中国の五代十国時代の王族。
後梁の3代皇帝です。
後梁を建国した朱全忠の嫡子です。
中国ドラマ
「両世歓」では 慶王 のモデルになりました。
父を殺した朱友珪をたおして皇帝になったものの。衰えた後梁を立て直すことはできず。
後梁は朱友貞の時代に滅んでしまいます。
史実の朱友貞はどんな人物だったのか紹介します。
末帝 朱友貞はの史実
いつの時代の人?
生年月日:888年
没年月日:923年
姓 :朱(しゅ)
名称:友貞(ゆうてい)
国:唐→後梁
地位:均王→皇帝
在位期間:913年3月27日~923年11月18日
父: 朱全忠(後梁 太祖)
母: 賢妃張氏(元貞皇后)
正室:
徳妃 張氏
次妃 郭氏
子供:一男三女
日本では平安時代になります。
おいたち
唐の僖宗の時代。
888年に生まれました。
父は朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)。
最初は唐に反乱を起こした黄巣軍に参加。軍団の司令として出世しましたが唐に降伏。唐の軍人になりました。
母は朱全忠の正室 張氏。
太祖朱晃の正室の子。
朱友貞は美男子だったといいます。物静かで儒学者と交流するのが好きでした。
唐の末期には河南府参軍に任命されていました。
開平元年(907年)。朱全忠が唐に対してクーデターを起こしました。唐が滅亡。朱全忠は「梁」を建国、皇帝(太祖)になりました。
朱友貞は「均王(きんおう)」の称号を与えられました。
910年。東京馬歩軍都指揮使に任命されました。(東京=開封)
912年。郢王 朱友珪が太祖 朱全忠を殺害。その罪を博王 朱友文になすりつけて殺害。朱友珪が皇帝になりました。
でも多くの人は朱友珪が朱全忠を殺したと思っていました。
朱友珪は人気を集めようと官位や褒美を乱発。朱友貞には東京(開封府)留守・開封府尹の役職が与えられました。
しかし朱友珪は自堕落な生活をおくり、政治が疎かになりました。周囲の人々には不満がたまります。
913年。朱友貞は義兄の趙岩、従兄弟の袁象先たちと反乱を起こそうと計画。魏州(現在の河北大名)にも使者を送り、魏博節度使の楊師厚にも決起を呼びかけ協力をとりつけました。
袁象先が軍隊千人を宮殿に突入させ朱友珪を殺害。洛陽を占領しました。袁象先は朱友貞に洛陽に来て即位するように使者を送りました。
でも朱友貞は開封で即位しました。
朱友貞には諡や廟号がありません。歴史学者からは「末帝」と呼ばれています。
後梁皇帝になる
末帝 朱友貞は即位すると朱友珪が使用していた年号の「鳳暦」を廃止。父の太祖 朱全忠が使っていた年号「乾化」を復活させました。
後梁が内輪もめをしている間に北方では沙陀突厥の晋(後の後唐)が力をつけていました。
国内では天雄軍節度使の楊師厚は六州を支配下において大きな力を持っていました。皇帝になっても安心はできません。
915年。天雄軍節度使の楊師厚が死亡。そこで朱友貞は天雄軍を分割してその力を弱めようとしました。ところが天雄軍が反発して晋に投降してしまいました。
同じ年。同母弟の康王 朱友敬が謀反を起こします。刺客を送りこんで殺害しました。
末帝 朱友貞は王室は信用できないと思い、趙岩たち側近を要職につけました。
916年。後梁は晋との戦いに何度も敗れ、黄河より北の領地をほとんど失ってしまいます。
その後もどんどん後梁の国土は奪われていきました。
後梁の滅亡
921年。かつて親族に謀反を起こされた末帝 朱友貞は疑い深くなっていました。
従兄弟の朱友能、朱友諒、朱友誨を謀反の疑いで処刑。晒し首にしたといいます。
さらに、異母弟の朱友雍、朱友徽も謀反の疑いで処刑。
次々と一族を処刑していきます。
国内で争っている間に、923年。力をつけてきた普の 李存勗(り そんきょく)が「唐」を建国しました。歴史上は「後唐」と呼ばれます。
後唐が建国した時、後梁の主力部隊は首都から遠く離れた潞州、澤州で戦っていました。首都は無防備な状態でした。
後唐皇帝・李存勗は絶好のチャンスを見逃さす、後梁への総攻撃を始めました。
末帝 朱友貞は王彦章に北面の軍を指揮させ後唐を迎え討ちました。しかし李存勗の大軍には勝てずに退却。末帝 朱友貞は王彦章の代わりに段凝を任命。段凝は黄河で後唐軍を食い止めました。
その間に後唐軍が別方向から攻めてきましたが、王彦章たちが軍を率いて迎え討ちました。各地で後梁軍が戦っている最中に後梁の将軍・康延孝が唐に降伏。
李存勗は康延孝から得た情報をもと後梁の守備の弱いところをついて攻撃してきました。
無防備な首都・開封は後唐の総攻撃にあって陥落。もう終わりと諦めた朱友貞は護衛の皇甫麟に介錯させて自決しました。享年36。
皇甫麟は朱友貞の太子を介錯。その後、皇甫麟自身も自決しました。
こうして後梁は滅亡しました。
後梁はわずか16年しか続きませんでした。
ドラマ
両世歓 2019年、中国 演:黄文濱 役名:慶王
ドラマでは雍帝(モデルは朱全忠)、賢妃(モデルは賢妃張氏)の息子。
景辞たちとともに鄴王(モデルは朱友珪)を倒した後、皇帝に即位します。
登場人物の性格や設定はかなり変わっていますが、大まかな流れは史実を元にしています。
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