中国ドラマ「王女未央」に登場する拓跋 余(たくばつ よ)は実在の人物です。
北魏の皇子でした。
本当なら皇位継承者ではなかったのですが、継承争いの巻き込まれて皇帝になります。
しかし歴史上は皇帝とは認められていません。
歴史上の拓跋 余(たくばつ よ)と 拓跋余の母・閭左昭儀を紹介します。
拓跋余の史実
生年月日:不明
没年月日:452年10月
在位期間:452年3月11日~10月29日
姓:拓跋 余(たくばつ よ)
称号:南安隠王
父:太武帝
母:閭左昭儀
いつの時代?
北魏は古代中国の五胡十六国時代から南北朝時代に存在した国。
三国志で有名な魏(曹魏)と区別するために北魏または元魏と呼びます。
漢や三国志時代の後、隋・唐の前の時代です。このころの中国大陸は統一された強い国がなく、いくつかの国に分かれて争っていた時代でした。
日本では古墳時代。正確な年代はわかりませんが、大和朝廷の勢力範囲を拡大した仁徳~雄略天皇の世代に近いようです。河内(大阪府)で大きな古墳が作られていた時代です。
朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が争っていた時代でした。
おいたち
拓跋 余(たくばつ よ)は北魏の第3代皇帝・太武帝の6男です。皇子の中では最年少でした。
産まれた年は不明です。
442年。呉王の称号を与えられました。
北魏では皇帝の息子は王号を与えられ、◯◯王と名乗ることが多いです。◯◯には地域の名前がついていますが、帝国の領地は国から任命された役人が治めています。
王子が実際にその地域を治めることは殆どなかったようです。
呉王といっても、拓跋 余が呉の国を治めているわけではありません。
この時代。父・大武帝は北魏を華北一の大国にした皇帝です。中国大陸は北朝と南朝に分かれて争っていました。北朝の北にも遊牧民の国があります。
451年11月。大武帝は南朝の劉宋に遠征しました。
皇太子・拓跋晃(たくばつ こう)も父の遠征に従って出陣したり北の国境を守るために遠征しました。
拓跋 余は都の平城を守るために残りました。大武帝は拓跋 余に都の守りを任せられると考えていたようです。
451年12月。安男王の称号を与えられました。
452年2月。皇太子・拓跋晃が宦官の宗愛(そう あい)の讒言で死亡するという事件がおこりました。処罰されることを恐れた宗愛は大武帝を暗殺してしまいます。
重臣の蘭延や侍中の薛提は亡き皇太子の息子の拓跋濬が幼いことを理由に、大武帝の息子の中で年長者だった東平王・拓跋翰(たくばつ かん)を次の皇帝にしようとしました。
しかし宗愛は拓跋翰と仲が悪く憎んでいました。
そこで宗愛は赫連皇后の命令と嘘をついて蘭延たちをおびき出して殺害しました。拓跋翰(たくばつ かん)も殺害されました。
邪魔者のいなくなった宗愛は拓跋 余(たくばつ よ)を皇帝にしました。
宗愛はもともと拓跋 余とは親しかったので操りやすいと思ったのかもしれません。
拓跋 余は皇帝になったものの、宗愛が権力を独占して横暴にふるまっていました。
拓跋 余は本来は自分の継承順位が低いことを知っていました。皇位継承の優先権があった兄や兄の息子たちのご機嫌をとろうと褒美をばらまきました。そのため北魏の財政が悪化します。
政治への興味を失い、狩りをしたり宴会をひらいたり遊びふけるようになりました。
一方で宗愛の横暴はひどくなります。宗愛は様々な権限を持っていましたが怠慢で悪い噂が聞こえてきます。そこで宗愛の権力を奪おうとしましたが、逆に宗愛によって殺害されてしまいました。
その後即位したのは、文成帝・拓跋濬(たくばつ しゅん)でした。
皇帝と認められない拓跋余
皇帝にいた期間はわずか7ヶ月間でした。
正式な皇帝とは認められず、◯◯帝という呼び名を与えられていません。南安隠王とよばれるだけです。
第◯代皇帝という順番からも外されています。
3代皇帝太武帝の次に皇帝になったので順番では4代皇帝なのですが、歴史上は4代皇帝は文成帝になってしまいます。
皇帝の器ではなかったようですが、権力争いに利用されたあげくに殺されてしまった不運な人です。
拓跋余の母 閭左昭儀
閭左昭儀は南安王・拓跋余の生母。
柔然の可汗(カガン=王)郁久閭 大檀(たいたん)の娘。呉提(ごてい)の姉妹。
429年。大檀が病死すると息子の呉提が柔然の可汗になりました。
434年。呉提は北魏の皇族・西海公主と結婚。呉提は妹を太武帝に献上しました。それが閭左昭儀です。
柔然と北魏の政略結婚で北魏に来たのでした。ようするに人質です。
その後、いつかはわかりませんが閭左昭儀は男児を出産。それが拓跋 余(たくばつ よ)です。その後も柔然と北魏は争いを繰り返したので北魏では居づらかったかもしれません。
ドラマ「王女未央」では拓跋余の養母になっていますが、歴史上は生母です。
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