徳興君(トクフングン)は、14代国王・宣宗の父です。
徳興大院君(トグンデウォングン)ともいいます。
13代国王・明宗の兄ですが、側室の息子だったため王にはなれませんでした。ところが、明宗には息子がいなかったことから徳興君の息子が次の王に選ばれました。
韓流時代劇「オクニョ」にもちょっとだけ登場する徳興君とは、どんな人物だったのか紹介します。
徳興君(トクフングン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1530年4月2日
没年月日:1559年6月14日
名前:李岹(イ・チョ)
称号:徳興大院君(トグンデウォングン、とくこうだいいんくん)
称号:徳興君(トグングン、とくこうくん)
父:中宗
母:昌嬪安氏
妻:河東府大夫人鄭氏
子供:
長男: 河原君
次男: 河陵君
三男: 河城君(宣祖)
長女: 李明順
次女: 李恵玉
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に11代中宗の庶子。14代宣宗の父です。
日本では戦国時代になります。
おいたち
父は11代国王・中宗。
母は昌嬪安氏。中宗の9男。
1530年。宮殿で産まれました。
12代仁宗の弟、13代明宗の兄になります。
1538年(中宗33年)。8歳のとき、徳興君の称号が与えられました。
1542年(中宗37年)。12歳のとき、鄭世虎の娘・鄭氏と結婚しました。
鄭氏は世宗から世祖に仕えた重臣・鄭麟趾(チョン・インジ)の子孫になります。チョン・インジは領議政にまでなった重臣です。世祖から信頼され訓民正音(ハングル)の制作にも関わりました。
徳興君の屋敷(都正宮)は王宮の西にありました。
1552年(明宗7年)。22歳のとき、高官の士大夫(儒教の教えを守る官僚)と喧嘩になりました。妓生と一緒に司憲府から弾劾を受けましたが、王が却下しました。
1554年(明宗7年)。徳興君の家の奴婢と義父の鄭世虎の家の奴婢が喧嘩になり司憲府から弾劾を受けました。このときも明王が却下しました。
徳興君と明宗は親しかったようです。でも、上に書いたような問題をおこすことがあったので明宗も「徳興君は聡明ではない」と思っていたようです。とはいえ、数少ない兄弟ですし母や叔父のやってることに比べれば小さなことです。明宗は徳興君の子どもたちに会うこともあり、徳興君一家とは親しくしていたようです。
1559年(明宗14年)。30歳の若さで病死しました。
1567年。明宗が跡継ぎがないまま亡くなると、徳興君の三男・河城君が即位しました。14代国王・宣祖です。
河城君を跡継ぎに決めたのは明宗自身でした。徳興君の子どもたちに会って河城君が最も聡明だったため明宗が後継者に決めたといいます。
中宗以降、重臣たちは王の外威(妃や母の親族)が権力をもつことに嫌気がしていました。そこでたいした力をもっていない河城君が王になることに反対しませんでした。
王になれなかった徳興君
李氏朝鮮では王の息子でない者が何らかの理由で王になった場合。あとから親を王に追尊することがよくあります。
例えば成宗が即位した時には父の懿敬世子を徳宗に追尊したことがあります。
そこで宣祖が即位したときも徳興君を王に追尊しようとしました。しかし重臣の反対にあい出来ませんでした。宣祖は明宗の後継者として指名を受けました。養子になったのです。法律上は宣祖の親は明宗になります。だから徳興君は宣祖は父とはいえない。という理屈です。
もともと王位継承権のあった懿敬世子と違い、徳興君は側室の子供で王位継承権はないと考えられていました。そこで重臣たちの支持がえられなかったのです。
宣祖は父に王の称号を与えることを諦め、徳興大院君という称号が与えられることになりました。王妃の父を府院君といいますが、府を大に変えて新しい「大院君」という称号を作ったのです。
つまり、徳興大院君は朝鮮で初めて「大院君」という称号を与えられた人なのです。
宣祖の母は河東府大夫人という称号が与えられました。
後に大院君は王の血統上の親という意味になりました。しかしこのときは形のうえでは王の叔父、伯母という意味でした。このあたりは対面や理屈を重視する朝鮮社会のややこしいところです。
テレビドラマ
オクニョ(獄中花) 2016 演:チョン・ソンウン
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