王皇后は唐の第3代皇帝 高宗 李治の正室。
李治が王子時代から妻でした。
でも高宗 李治からはあまり愛されず、高宗は側室の蕭淑妃や武則天を寵愛していました。
やがて高宗の寵愛を独り占めする武則天や彼女を支持する派閥によって。王皇后は廃位させられてしまいます。
皇后を廃された後は幽閉され、残酷な方法で処刑されました。
史実の王皇后はどんな人物だったのか紹介します。
王皇后の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:655年
姓 :太原王氏
名称:不明
国:唐
地位:普王妃→皇太子妃→皇后
称号:
父:王仁祐
母:河東柳氏
夫:高宗 李治
実子:なし
養子:李忠
彼女が生きたのは唐の2代太宗~3代高宗の時代です
日本では飛鳥時代になります。
おいたち
北朝の名門、太原王氏の分家・祁縣王氏(きけんおうし)の出身。
高祖父の王思政は西魏で尚書左僕射を務めました。
父は王仁祐(おう・じんゆう) 羅山県の県令(知事)を務めていました。
母は河東柳氏。
高祖李淵の妹・同安大長公主(同安公主)は王氏の叔祖母(祖父の姉妹)です。
王氏は大変美しかったので同安公主は太宗 李世民に紹介。太宗は王氏を普王 李治の妻に決めました。
543年。李治は皇太子になりました。
王氏は皇太子妃になりました。
父の王仁祐は陳州刺史。伯父の柳奭は兵部侍郎になりました。
王皇后は容姿は美しかったものの、堅い印象の人物だったようです。
蕭氏が皇太子・李治の側室になりました。蕭氏は美しく踊りも上手でした。蕭氏は李治の寵愛をうけ548年に男子の李素節(許王)を出産しました。
李治が武媚(武則天)と出会ったのもこのころといわれています。
皇后になる
649年(貞観23年)。高宗 李治が即位しました。
650年(永徽元年)正月。王氏は正式に皇后になりました。
父の王仁祐には「魏国公」、母の柳氏には「魏国夫人」の爵位が与えられました。伯父の柳奭は中書侍郎になりました。
蕭淑妃との対立
李治が即位したころ寵愛していたのは側室の蕭淑妃でした。蕭淑妃は踊りや歌が上手なだけでなく色気があり甘え上手でした。でも後宮では他の女性が眼中にないかのような傲慢な態度でした。
高宗は蕭淑妃の息子・李素節(許王)を可愛がっていました。
子のいない王皇后にとっては驚異でした。
王皇后は真っ直ぐな性格で高宗のご機嫌をとるのが苦手でした。王皇后は高宗に相手にされなくなり、蕭淑妃に嫉妬しました。
唐の皇帝には四妃(四夫人)がいて淑妃の他に貴妃、徳妃、賢妃がいます。高宗の時代にも四妃はいました。蕭淑妃は「貴妃」ではないので側室の中で一番地位が高いわけではありません。でも後宮で蕭淑妃に対抗できる人はいません。
武則天とともに蕭淑妃と対立
王皇后は後宮に入ってきた武媚(武則天)を味方にして蕭淑妃に対抗しました。
一説によると武媚(武則天)は太宗の死後、感業寺という尼寺に入っていたといいます(旧唐書)。
王皇后は高宗が尼寺にいる武媚と密かに会っているのを知り。高宗に武媚を後宮によんではどうかと勧め。太宗の喪が開けると武媚を後宮に呼んだとされます(資治通鑑)。
また、貞観末に高宗は太宗から武媚を譲り受けたともいわれます(新唐書)。
いきさつはともかく。高宗の後宮に来た武媚は蕭淑妃の強力なライバルになりました。
最初。後宮に来た武媚は王皇后に素直でした。王皇后は高宗の前で武媚を褒めていました。
武媚が入宮後。蕭淑妃の寵愛が衰えました。もともと傲慢な性格だった蕭淑妃は高宗にも攻撃的になり高宗は蕭淑妃への愛情が冷めてしまいます。
高宗から蕭淑妃の寵愛を失わせることに成功しました。
武則天だけを寵愛する高宗
でも蕭淑妃が寵愛を失っても王皇后が高宗に寵愛されることはありません。
武媚は入宮後に李弘を出産。武昭儀(武則天)に昇進。
寵愛の衰えた王皇后、蕭淑妃は武昭儀とお互いに誹謗中傷を繰り返しました。
高宗は王皇后と蕭淑妃のいうことは信じず、武昭儀の言葉だけを信じました。
王皇后の生母・魏国夫人柳氏や伯父の中書令 柳奭は後宮に出入りしていました。その者たちの態度がよくなかったのも王皇后が高宗から嫌われる原因かもしれません。
また武昭儀(武則天)は王皇后や蕭淑妃に仕える者たちにも金品を配り味方にしました。
王皇后や蕭淑妃の行動は武昭儀(武則天)につつぬけでした。武昭儀はその情報を高宗に伝えていました。
李忠を養子にする
王皇后には子供がいませんでした。
そこで王皇后の伯父・柳奭は李忠を養子にするように王皇后を説得しました。
李忠は高宗と宮人劉氏の子供。李忠は高宗の長男。李忠が誕生したときには太宗 李世民も孫の誕生に大変喜びました。
生母の宮人劉氏は李忠の出産後の記録がまったくありません。称号も与えられていません。
李忠は高宗の長男でしたが、母親の身分が低いので皇太子にはなってませんでした。
その李忠を王皇后の養子にして李忠が皇太子になれば王皇后の地位も安泰と考えたのです。柳奭は高宗や他の重臣にも根回し。褚遂良、韓瑗、長孫無忌、于志寧たち大臣も賛成しました。高宗も李忠が王皇后の養子になるのを認めます。
552年(永徽3年)。李忠は皇太子に任命されました。
皇后の地位を失う
武則天の娘を殺した罪で廃されそうになる
654年(永徽5年)。武昭儀は娘を出産。王皇后は武昭儀のお見舞いに行きました。
「資治通鑑」によると、王皇后が帰ったあと武昭儀は自分の娘を殺害。高宗が来たところで騒ぎ出します。武昭儀は「王皇后が娘を殺した」と泣きながら高宗に訴えました。侍女たちも「皇后が来ました」と証言します。
高宗は激怒して王皇后を廃そうとしました。
大臣達は王皇后の廃位に反対しました。
そこで高宗は武昭儀をつれて宰相の長孫無忌の屋敷を訪れ酒を飲み交わしました。その場で荷車に積んだ金や玉の宝物を長孫無忌に渡して王皇后の廃位に賛成するように説得しました。でも長孫無忌は王皇后を廃位には反対しました。
次に武昭儀は母の楊氏に長孫無忌を説得させました。でも長孫無忌は認めません。礼部尚書の許敬宗も長孫無忌を説得しましたが、逆に長孫無忌に怒られました。
こうしてこのときは王皇后が廃されることはありませんでした。
本当に自分で殺したかどうかはわかりませんが。この時代は幼子が死亡することはよくあります。なにかの原因で死亡したのを王皇后の責任になすりつけたのかもしれません。
巫蠱事件
655年(永徽6年)6月。王皇后は次第に不安感が強くなり。生母の柳氏と協力して武昭儀に呪いをかけました。でもバレてしまいます。高宗は柳氏の宮殿への出入りを禁止しました。伯父の柳奭は中書令の職を解任されました。
皇后の座を廃される
中書舎人の李義府たちが王皇后の廃位を主張。
655年(永徽6年)9月。高宗は長孫無忌、李勣、於志寧、褚遂良たち主要な大臣を呼びました。李勣はこのとき病気を理由に欠席。
高宗は集まった大臣に「皇后には子(実子)がいない。武昭儀には子供がいる。武昭儀を皇后にしようと思うがどうか?」と聞きました。重臣たちは反対しました。
長孫無忌と褚遂良は反対。於志寧は賛成も反対もしませんでした。
後日。高宗は李勣を呼び出して「朕は武昭儀を皇后にしたいのだ。でも遂良たちは反対しておる。お前はどう思うか?」と聞きました。
李勣は戦場では強さを発揮する武将ですが政治は得意ではありません。李勣はあきらめたのか「陛下の家族のことです。外の者がとやかく言うものではありません」と返事しました。
それを聞いた高宗は「賛成が得られた」と判断して王皇后の廃位、武昭儀の皇后昇格を決定しました。
10月。王皇后と蕭淑妃は「毒を盛った罪」で中庭に幽閉され。地位を廃され庶人に落とされました。また親や兄弟も流罪になりました。
王皇后の一族は「蟒(ぼう、うわばみ、巨大な蛇)」氏。蕭淑妃の一族は「梟(きょう、ふくろう、中国では不吉な鳥)」氏。と姓を変えさせられました。
そして武昭儀を皇后にすることが決まります。
王皇后の最期
その後。高宗は王氏が気の毒になったのか、幽閉されている中庭を訪れ「皇后と淑妃は無事か?」と訪ねました。すると建物は窓が塞がれ、食事を出し入れする小さな穴があるだけでした。
王氏は「私は廃され宮婢にされました。いまさら皇后と名のれるでしょうか?」と言って泣きくずれました。
そして「陛下が昔の情けを覚えておいででしたら。私達が再び太陽と月を見ることができるよう。この中庭の名前を「回心院」と変えて、私達の再生を願ってください」とお願いしました。
高宗は「そうしよう」と言いました。
ところがそれを聞いた武后は王氏と蕭氏を100回の杖刑にしたあと。手足を切断、酒甕(かめ)の中に放り込み「婆婆ども、骨まで酔ってしまえ」と言いました。
後日。武后が酒甕を見に行くと二人は既に死亡していて髪まで血に染まっていました。
武后はさすがに気持ち悪くなって祈祷師にお祓いをさせ、二度とそこには近づかず。洛陽の蓬萊宮に移り住みました。
「資治通鑑」では王氏と蕭氏は酒甕に投げ込まれたあとも数日生きていたことになってますが。武則天が二人の死を確認したのが数日後。というだけでそれまでに息絶えていたはずです。
武則天の失脚後。中宗の時代になると王氏と蕭氏は姓が元に戻されました。
こうした残酷描写は現代の歴史研究家の中には武則天の悪女ぶりを誇張するための作り話。と考える人もいるようです。
でも王朝時代の中国人は現代では考えられないほど残酷な方法で人を殺害しますし。
王皇后と蕭淑妃が残酷な方法で殺害されたのは確かなようです。
ドラマ
武則天 2014年、中国 演:施詩 役名:王玉燕
風起花抄 2021年、中国 演:潘悅 役名:太子妃
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