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八大王・趙元儼(ちょうげんげん)宋仁宗 趙禎の信頼を得た皇族

宋 4.1 宋の皇帝・男性皇族

八大王・趙元儼(ちょうげんげん)は10世紀末から11世紀の北宋の皇族。

宋太宗 趙炅 の八男。宋真宗 趙恒の弟です。

太宗の八男だから八大王。

中国で人気の「包拯(ほう じょう)」の小説・演劇。「狸猫換太子」の等の物語の中では「八賢王」の呼び名で正義感の強い王族として登場します。

八賢王のモデルになったのが趙元儼です。

仁宗皇帝 趙禎に実の母が李辰妃だと教えたのが趙元儼と言われます。

史実の趙元儼はどんな人物だったのか紹介します。

 

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趙元儼の史実

いつの時代の人?

生年月日:986年
没年月日:1044年2月13日

姓 :趙(ちょう)氏
名称:元儼(げんげん)

国:宋(北宋)
爵位:曹国公、廣陵郡王、栄王、端王、彭王、通王、涇王、定王、鎮王、孟王、荊王、呉王、周王
別名:八大王、八賢王

父:太宗 趙炅
母:王徳妃
正室:王妃張氏

子供:趙允熙、趙允良、趙允迪、趙允初

日本では平安時代になります。

 

太宗の八男として生まれて可愛がられる

986年。北宋の開封で誕生。

父は北宋の第2代皇帝 太宗 趙炅。
母は側室の金城郡君 王氏(後の徳妃)。

趙元儼(ちょうげんげん)は太宗の大八皇子。

趙元儼は幼いころから才能があり父の太宗から可愛がられていました。朝廷の会議や宴会にもよく出席して父によく仕えました。

北宋の規則では皇子たちは一定の年齢になると爵位が与えられ、宮殿を出て自分の邸宅に住むことになっています。でも太宗は息子が離れていくのが惜しかったので20歳になったら「周王」に任命することにしました。

そのため宮中では「二十八太保(20歳で太保になる第八皇子)」と呼ばれました。

997年。父・太宗 趙炅が死去。兄の真宗 趙恒が即位しました。このとき趙元儼は13歳。

 

真宗の時代

趙元儼は「曹国公」になりました。検校太保、左衛上将軍兼御史大夫の役職につき、平海軍節度使、同中書門下平章事、検校太傅などを歴任。高い地位につきました。

火事で皇帝を怒らせる

大中祥符8年。王府の侍女の火の不始末が原因で火事になり。皇宮に燃え移りました。

真宗 趙恒は激怒。このとき武信軍節度使の役目を務めていましたが。趙元儼は火事の責任を取らされて役目を解任され端王に降格。宮殿の外に出されました。

その後。真宗に会うたびに謝罪を繰り返しました。真宗は趙元儼を許し、再び官職を与えられました。

後に「彭王」になり鎮海・安化二軍節度使を務めました。

その後は安化軍、天平軍を担当。永清・横海軍節度使、合保平・定国の両軍節度使などを務めました。

趙元儼は宋真宗が行なった泰山、汾陰の封禅の儀式、祠太清宮などの主要な活動に参加しました。

 

兄・真宗の後継者?

「続資治通鑑長編」によると

真宗は重病でいよいよ臨終間近になりました。皇太子の趙禎はまだ13歳です。

真宗は重臣たちを寝所に招き入れましたが声が出せなかったので、まず自分の胸を指し示し、次に五本の指と三本の指を伸ばしました。重臣たちは「八弟の趙元儼に皇位を譲るつもりだ」と解釈しました。

幕の裏からその様子を見ていた皇后は内侍に命じて重臣たちを退席させ。真宗のその仕草の意味を「病状がこの三、五日で良くなったと言っているのです。安心してください。皇位のことではないのですよ」と発表しました。

役人たちはそれ以上、後継者問題については考えませんでしたが。その話を聞いた趙元儼はそうではありませんでした。

趙元儼は兄の看病をするという理由で宮殿に泊り数日滞在しました。宰相の李迪は趙元儼は野心を持っているのではないか、と思いました。そこで趙元儼が飲もうと用意させたお湯に墨を入れ黒く濁らせました。毒を盛られていると思った趙元儼は宮殿を出て行ったということです。

 

仁宗の時代

劉皇太后との緊張関係

1022年。兄の真宗 趙恒が死去。仁宗 趙禎が即位。劉皇太后が垂簾聴政を行いました。

当時、趙元儼は有力視されている王族だったので趙元儼にまつわる様々な噂がありました。

趙元儼は皇太后に疑われて粛清されるのを恐れて、病気のふりをして家に引きこもりました。人とは交流せず、わけの分からない言葉を口にして。朝廷には出仕しなくなった皇太后は趙元儼を信用していなかったので彼を監視させましたが、趙元儼の言動がおかしかったので気が狂ったと判断。趙元儼は朝廷に出なくていいことにしました。

趙元儼は王府で自分の好きなことをして書道や絵を描いて隠居生活のような暮らしをしていました。そうした生活が10年近く続きました。

仁宗 趙禎に本当の生母を教える

1033年。劉皇太后が死去。

趙元儼は朝廷に出仕。仁宗 趙禎が”母”劉皇太后の死を悲しんでいると、趙元儼は「陛下は李宸妃から生まれたのですよ。李宸妃は非業の死をとげたのです」と言いました。

驚いた仁宗は李宸妃の棺を開けて中を見ました。李宸妃の遺体はきれいで皇太后の帽子と服装を着て遺体は水銀で保存され腐敗はしていませんでした。

宋仁宗は「人の言葉は信じられないものだ」とつぶやきました。李宸妃は殺害されたのでほっとしましたが。仁宗はそれまで李宸妃が母だとは知らなかったので驚きます。

仁宗の信頼を得る

仁宗が実権を握った後、仁宗は叔父を優遇しました。

仁宗は趙元儼に 剣履上殿(けんりじょうでん)、賜贊拜不名(えつさんはいふめい)、賜詔書不名(ちょうちょくしょふめい)、入朝不趨(にゅうちょうふすう)の特権を与えました。

賜贊拜不名(えつさんはいふめい)、賜詔書不名(ちょうちょくしょふめい)とは
臣下が皇帝に会うとき、皇帝から書状を出すとき。臣下の本名=諱(いみな)で呼んだり、書くのが普通です。でも本名を書かずに役職名だけで呼んでもらえる。役職名だけの書類を出してもらえる特権です。

剣履上殿(けんりじょうでん)とは。
臣下は皇帝に会う時には剣を外して靴を脱がないといけません。そうしないと暗殺を疑われます。剣を携え靴を履いたまま皇帝に会える特権が剣履上殿です。

入朝不趨(にゅうちょうふすう)とは。
臣下は皇帝の前では普通の歩幅や大股で歩いてはいけません。小股で背を屈めてチョコチョコと歩かなくはいけません。皇帝の前でも普通の歩幅で歩ける特権が入朝不趨です。

これができるのは一部の信頼された者だけです。

 

趙元儼は仁宗を「老六」と呼ぶことがありました。真宗の六男という意味です(趙禎の兄5人はいずれも早世)。親しい身内だけが使う呼び方で、本らは皇帝をそのように呼ぶのは失礼なのですが。仁宗は許していました。

趙元儼は仁宗に呼び出されても、膝をついてひれ伏すことはなくただ座ったままでした。また宮中の物を持ち帰ったり、模倣することがありました。それでも仁宗は叔父に何も言いませんでした。

でも趙元儼はただ態度の大きな叔父だったのではありません。仁宗は趙元儼を頼り何でも相談して。趙元儼もできる限り仁宗を助けました。

あるとき。西夏の王・李元昊が陝西を攻撃。趙元儼は戦費の足しに「銭50万を辺境費用のために寄付する」と申し出ました。仁宗は叔父の好意に甘えるわけにはいかないと思い半分だけ受け取りました。

趙元儼は陝西の戦況に関心を持ち続け朝廷の人々に尋ねました。でも戦況がまだ膠着していることを知ると、趙元儼は「それなら宰相は何のために存在しているかのか!」と厳しい口調で叱責しました。朝廷の人々は怯えおののき彼を恐れたといいます。

 

外国にも名が知られる?

噂は契丹にも広がったのでしょうか(両国の間には使者が行き来していました)。

宰相の富弼は契丹に使者に行って戻ってきました。そして「契丹の母親は子が夜泣きすると八大王が来るよと言って大人しくさせるのだ」と冗談を言いました。

 

母想いだった趙元儼

趙元儼は母想いでした。母の王徳妃が病気になったと聞くと薬を届け。朝夕に香を焚いて祈りました。次期は不明ですが王徳妃が亡くなると非常に悲しんで食事を取らなくなるほどでした。

 

趙元儼の最期

1043年の冬。都は猛烈な寒さに襲われました。趙元儼は風邪をひいて病床から起き上がることができなくなりました。仁宗は趙元儼を心配して叔父をお見舞いに行き、自ら薬を調合して与えました。

趙元儼は長い間、仁宗と話し込み。国のことについて忠告しました。非常に感心した仁宗はお礼に銀5000両を贈ろうとしましたが。趙元儼は「老い先短い私のために浪費してはいけません」と言って断りました。仁宗は叔父の言葉に感激しました。

1044年。趙元儼は死去。享年60。

 

テレビドラマ

開封府・北宋を包む青い天 2017年、中国 演:王仁君 役名:八賢王
包青天再起風雲 2019年、中国 演:杜燕歌
孤城閉 2020年、中国 演:趙達 役名:八大王

 

 

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