趙元份(ちょう げんふん)は10世紀の北宋の皇族で政治家。
第2代皇帝 太宗 趙炅の四男。
第3代皇帝 真宗 趙恒の異母弟です。
穏やかで、言葉使いも丁寧な人物だったと言われます。
真宗が契丹との戦いのため遠征したときには都の留守を任されました。
しかし契丹侵攻の翌年1005年に亡くなってしまいます。
史実の趙元份はどんな人物だったのか紹介します。
趙元份の史実
いつの時代の人?
生年月日:969年
没年月日:1005年
享年:37歳
姓 :趙(ちょう)氏
名称:徳巌→元俊→元份(げんふん)
国:宋(北宋)
爵位:冀王→越王→雍王→鄆王→陳王→潤王→魯王
父:太宗 趙炅
母:元徳皇后李氏
正室:李漢斌の娘
子供:趙允寧、趙允懷(趙允中)、濮王 趙允讓、華原県主
彼は北宋の第2代太宗~3代真宗の時代の人物です。
日本では平安時代になります。
おいたち
宋太祖の時代。
969年に生まれました。
最初の名前は趙徳巌(ちょう・とくげん)。
父は普王 趙光義。後の太宗 趙炅です。
母は隴西縣君 李氏。後の元徳 皇后です。
3代皇帝 真宗 趙恒の異母弟になります。
976年。父の太宗 趙炅が即位しました。
太平興国8年(983年)。初めて朝廷の役職を与えられ「同平章事」になりました。
冀王(きおう)の爵位を与えられ、趙元俊(ちょう・げんしゅん)と名前を変えました。
雍熙3年(986年)。趙元份(ちょう・げんふん)に改名。
侍中、威武軍節度使になり。「越王」の爵位を与えられました。
淳化年間(990~994年)。鎮東節度使になりました。
趙元份は大らかで寛容。言葉使いは丁寧で人々からの評判の良い人物でした。
真宗の時代
997年。異母兄の真宗 趙恒が即位しました。
中書令の役職を与えられ、永興、鳳翔節度使になりました。
このころの節度使は唐の時代と違って名誉称号的なものでした。
「雍王」の爵位を与えられました。
景徳元年(1004年)。契丹(遼)が攻めてきました。真宗が遠征すると趙元份は首都・開封の留守を任されました。
景德2年(1005年)。死去。死因は不明。
享年37歳。
契丹侵攻の翌年に亡くなっています。病気でしょうかそれとも何かの事件に巻き込まれたのでしょうか。詳しい記録がないのでわかりません。
元份の妻は問題人物?
趙元份は役人・李漢斌の娘と結婚しました。
李氏は性格が非常に激しく、嫉妬深く、残酷な性格でした。侍女が李氏の機嫌を損ねると鞭で打たれて死んでしまうほどだったのです。
皇帝は贈り物をするときは必ず平等に分配するように命じたが、李はそれを全部自分の物にしてしまいました。 宋の太宗が亡くなったとき、親族は皆、宮中に行って葬儀に参加しましたが、李氏は仮病を使って来ませんでした。
趙元份の誕生日には、李氏は服や品物を龍や鳳凰で飾りました。「龍と鳳凰」は「皇帝と皇后」を意味するシンボル。皇族でも勝手に使ったりしたら謀反を疑われても仕方ありません。李氏には野心はあったのでしょうね。趙元份も止めなかったということはその気はあったのでしょうか?それとも言っても止めないから諦めてたのでしょうか。
李氏は趙元份が亡くなっても悲しむ様子もなく、むしろ宋真宗を誹謗中傷していました。元份には愛情はなかったのでしょうか?地位や身分が好きだっただけで本人には愛情はなかったのかもしれませんね。
宋真宗は李氏のしたことを知り、彼女の爵位を奪い別の家に住まわせました。でもそれ以上の追求はしませんでした。
孫が皇帝になる
4代皇帝 仁宗 趙禎(ちょう・てい)には跡継ぎがいませんでした。
そこで趙元份の三男・趙允讓の息子・趙宗実(ちょう・そうじつ)を皇太子にしました。
趙宗実は1063年に即位。
5代皇帝 英宗 趙曙(ちょう・しょ)になりました。
英宗 趙曙より後の宋の皇帝はすべて英宗の子孫。
つまり趙元份の子孫が代々宋の皇帝になりました。
テレビドラマ
大宋宮詞 2021年、中国 演:陳政陽
このドラマでは皇帝の座を狙って謀反を起こす設定。
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