宇文家の歴史・宇文護や邕の祖先は匈奴から鮮卑になった

0 ドラマが分かる歴史の知識

宇文氏は古代中国の名門貴族です。

北魏・西魏で皇帝を補佐、北周の基礎を作った宇文泰。

北周の皇帝(天王)になった宇文覚・毓・邕たち。

北周で皇帝を凌ぐ力を持っていた宇文護。

日本ではあまり知られていませんでしたが。中国ドラマ「独孤伽羅」「独孤皇后」「蘭陵王」などでは宇文護が悪役として登場。宇文の姓をもつ皇族も何人も登場。ドラマ好きの間では名前が知られるようになりました。

宇文一族は北魏から北周の時代に活躍しました。

魏鮮卑系貴族の宇文氏はかつては遊牧民族の匈奴でした。匈奴滅亡後、鮮卑に合流。鮮卑化しました。

そんな時代に活躍した宇文一族とはどんな人たちだったのでしょうか。

宇文一族のルーツと歴史について紹介します。

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宇文氏は神の子孫・宇文氏の始祖伝説

古代中国の歴史書に載っている宇文氏の神話

宇文氏には伝説があります。

中国の歴史書「周書」によると。

宇文氏の祖先は炎帝神農氏。炎帝は黄帝と戦って滅ぼされました。炎帝神農氏の子孫は北方に逃れました。その子孫の中に葛烏菟という者がいました。葛烏菟は勇敢で頭が良い人物でした。そこで鮮卑12部族は葛烏菟を君主とあおぎました。

葛烏菟 の子孫に 普回 という者がいました。あるとき 普回 が狩りに出かけると「皇帝璽」と書かれた3つの玉璽を見つけました。普回は「これは天からの贈り物だ」と驚きました。

鮮卑では「天」を「宇」、君主を「文」と呼ぶ習慣がありました。

そこで自分の国を「宇文」と呼び。「宇文」を自分の姓にしました。

というお話。

漢民族の影響をうけて作られた伝説?

炎帝神農氏は中国神話の神というか伝説上の人です。

天から3つの玉璽をもらって地上の王になる。というのは北東アジアの民族によくあるお話。古代朝鮮の始祖とされる檀君神話(こちらは13世紀の高麗で書かれたので新しい神話です)にも似た話があります。

「皇帝」という称号は秦の始皇帝が最初に名乗りました。皇帝の証として「璽=ハンコ」を使ったのも始皇帝が始まり。以後、「玉璽」は中華王朝や東アジアの伝統になりました。

宇文氏の伝説が秦の時代よりも後に作られたのは間違いないですね。

「周書」が完成したのは西暦636年。唐の時代。隋の時代には原型ができていました。

この話は北周王室の宇文氏の始祖伝説として載っています。

仏教伝来以前の遊牧民は拝天信仰(天を崇拝する信仰)とシャーマニズムが信仰の中心。黄帝や炎帝などの帝崇拝は漢民族の信仰です。

狩猟や遊牧生活をしていたころの鮮卑や匈奴が炎帝神農氏を信仰するはずがありません。神話を作るにしても天の神の子孫と名乗るはずです。

北匈奴出身の宇文氏は、南匈奴や拓跋、慕容、段などの鮮卑に比べると万里の長城を越えるのが遅かったようなので。漢の文化を取り入れるのは遅かったかもしれません。

信憑性には疑問がありますが、3世紀末にいたとされる宇文莫槐という部族長が「祖先が天から璽をもらったのを自慢していた」という内容があります。「天から璽をもらった」という話は古くからあったのかもしれませんね。

6世紀の北魏では遊牧民出身者を漢の文化になじませる政策を行いました。遊牧民出身の人たちも儒教や道教、仏教に親しみました。「周書」に載っている「炎帝神農氏~」という部分は鮮卑が定住して漢民族の文化を吸収した後に作られたのでしょう。

宇文氏の神話は北周皇室の正当性を主張するために作られたお話。この神話ができたのは古くても北周時代でしょう。

それにしても宇文氏の北周を滅ぼした隋でこのような記録が作られるのは面白いですね。鮮卑の国を作った功労者という想いはあったのでしょうか。

とはいえ、これは伝説。

宇文氏は本当はどこからきたのでしょうか?

宇文一族の祖先は匈奴

宇文一族は匈奴(きょうど)出身です。

匈奴はかつて春秋戦国時代から漢の時代まで活躍?した騎馬遊牧民族。騎馬民族と聞いて日本人が想像するのはモンゴルですが、匈奴もたいしてかわりません。

紀元前2世紀頃の匈奴はユーラシアではかなり強い集団でした。

漢王朝の初代皇帝・劉邦は匈奴に敗北しました。ところが劉邦の子孫・漢の武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)は匈奴に戦いを挑み勝ちました。

漢と匈奴の力関係は逆転。とはいっても漢も相当国力が疲弊してしまったので、匈奴は漢に服従したり反逆したりを繰り返していました。

2世紀ごろ。匈奴が北と南に分裂

後漢の時代。匈奴は漢に友好的な南匈奴と漢に敵対的な北匈奴に分裂しました。

このとき北匈奴にいた部族が宇文部です。ここでいう◯◯部というのは部族です。

ちなみに南匈奴にいたのが独孤部です。

北匈奴は簡単には漢に服従せず、何度も漢に侵入しては荒らし回りました。でも漢や南匈奴との戦いに負けて次第に弱くなっていきます。

さらにモンゴル高原の東では鮮卑が拡大。鮮卑はかつてモンゴル高原の東を支配した東胡とよばれる遊牧民でした。東胡は匈奴との戦いに負けて壊滅。そのとき東胡の生き乗りが大興安嶺山脈に逃げました。鮮卑山を中心に活動していたので鮮卑とよばれます。牧畜と狩猟が中心の生活です。

その鮮卑が力を付けて北匈奴に戦いを挑むようにになりました。

北匈奴は南と東から責められて苦しくなりました。

北匈奴の滅亡

西暦89年。南匈奴の単于(王)と漢が北匈奴に決戦を挑んできました。北匈奴はこの戦いに敗れて敗走。ちりじりになってしまいます。歴史書からは匈奴の名前は消えます。匈奴の生き残りがフン族という説もあります。フン族が匈奴そのものかどうかはともかく関係の深い集団だったのでしょう。

東の大興安嶺山脈の方に逃げた部族もいます。宇文部もそのひとつです。

すでにそこには鮮卑がいました。宇文部はかつて敵だった鮮卑に合流しました。

遊牧民は民族や人種にはこだわりません。強いものには従う。勢いのあるところの仲間になりたがる。という要領のいいところがあります。鮮卑にとっても悪い話ではなかったでしょう。集団としての匈奴は壊滅したのです。それなら残りの戦力を自分たちのものにしたほうが得です。

宇文部は匈奴ですからもとからいた鮮卑とは言葉が違ったといいます。でも一緒に暮らしている間に鮮卑化していきました。

2世紀の中頃。鮮卑に檀石槐(たんせきかい)というリーダーが出現。彼のもとで鮮卑がまとまりモンゴル高原を支配。かつての匈奴なみの勢力範囲をもちました。

ところが檀石槐の死後、鮮卑は分裂。それぞれの部族ごとに行動するようになりました。このころから鮮卑の族長は世襲制になります。それまでは族長の家系はとくに決まってませんでした。

ちなみに檀石槐が朝鮮神話の檀君のモデルの可能性もあると思いますが(仏教の影響も大きいです)。まだなんともいえません。

ちなみに「檀・石槐」ではなく「檀石槐」という名前です。

鮮卑宇文部の活動

鮮卑分裂後。

宇文部は遼東(中国遼河の東)で暮らしていました。鮮卑でも有力な部族のひとつでした。

五胡十六国

4世紀初期の五胡十六国時代
前趙(攣鞮)・鉄弗は匈奴。
代(拓跋)・段・宇文・慕容は鮮卑
この時代の華北はほどんど遊牧民族の国

 

時期は不明ですが、宇文普回(うぶん ふかい)の息子・宇文莫那(うぶん ばくな)は遼西(遼河の西)に移り住みました。

何世代かあと。

宇文 莫槐(うぶん ばくかい)が宇文部の大人(部族長)になりました。このころの宇文部は遼東・遼西では鮮卑系の段部とともに勢いのある部族でした。宇文 莫槐は鮮卑の慕容(ぼよう)部と争っていました。

293年。ところが莫槐は横暴だったので部族民に殺害されてしまいます。莫槐の弟・普撥(ふはつ)があとを継ぎました。以後、宇文普撥の子孫が宇文部の族長になります。

宇文莫珪(うぶん ばくけい)の頃になると、地域でも有力な部族になりました。莫珪は自ら単于(ぜんう)と名乗りました。 単于=匈奴で”王”の称号です。

299年。このころ鮮卑の中でも力をつけていたのが西の拓跋(たくばつ)部。宇文部と拓跋部は姻戚関係を結びます。

莫珪は慕容部と何度も戦いますが。敗退。

莫珪の死後、子の遜昵延(そうじつえん)が大人(部族長)になりました。

315年。拓跋氏が代王になりました。鮮卑の中でも飛び抜けた存在です。

318年。華北で最後の漢民族王朝・西普が滅亡。

以後。華北は遊牧民が君主の国同士の戦いになります。

宇文部の壊滅

344年。宇文逸豆帰(うぶん いっとうき)のとき。慕容部との戦いで大敗。大人の逸豆帰が戦死。族長の死を知った宇文部の兵は戦意喪失して降伏。

宇文部の住民は慕容部に強制移住させられました。

鮮卑宇文部は解散しました。

武将として生き残る宇文陵

部族としての宇文部はなくなりました。でも代々部族長を出していた宇文家の人びとが全滅したわけではありません。

逸豆帰の子・宇文陵(うぶん りょう)は慕容氏が建国した「前燕」に仕えました。

370年。前燕は前秦との戦いに破れて滅亡。宇文陵は前秦に仕えました。

378年。チベット系の氐(てい)族が作った前秦が華北を統一。

385年。前秦の皇帝・苻堅が死亡。前秦の華北統一が崩れます。地で部族が独立します。

385年。慕容垂が皇帝を名乗り「後燕」を建国。実際には384年には燕王を名乗っていましたが前秦皇帝が生きている間は前秦皇帝の臣下の立場をとっていたので「皇帝」を名乗りませんでした。

宇文陵は後燕に仕えました。

386年。鮮卑拓跋部の拓跋圭(たくばつ けい)が北魏を建国しました。

最初は後燕は北魏と同盟していました。
ところが対立します。

後燕が滅亡して宇文陵は北魏に移住

397年。北魏の道武帝・拓跋圭(たくばつ けい)は後燕に攻め込みました。後燕は都の中山を占領され敗北。

後燕の貴族は北魏の都・平城に強制移住させられました。後燕は滅亡しました。

北魏の武川で国境を守る

北魏の道武帝は北の国境の守りを強化しました。

というのもモンゴル高原では柔然という遊牧民が勢力を拡大していたからです。柔然はかつて鮮卑に従属していた遊牧民ですが。鮮卑が華北に移住して争っている間に手薄になったモンゴル高原を統一して巨大な遊牧民国家を作っていました。

道武帝は国を守るため万里の長城の内側に強力な軍団を置きました。それが北鎮(六鎮)です。北鎮は統廃合され6つが残ったので六鎮と呼ばれます。

北魏 5世紀

5世紀ごろの北魏と周辺

398年。宇文陵は六鎮のひとつの武川鎮に移されます。

宇文一族は代々国境を守っていました。

宇文陵の子や孫は武勇で評判になりました。

宇文陵のひ孫・宇文肱(うぶん こう)の時代。

523年。六鎮の乱が起きました。

宇文肱は反乱鎮圧に功績をあげます。宇文肱は戦いが続く中で戦死します。

その息子が宇文泰です。

宇文泰は辺境の軍団から中央政治を動かす重臣に出世します。

やがて北魏は西魏と東魏に分裂。宇文泰は皇帝よりも力を持つ宰相になります。

宇文泰から権力を引き継ぎ、北周で皇帝を凌ぐ力を持っていたのが宇文護。

北周の皇帝(天王)になった宇文覚・毓・邕たち。

 

宇文一族の時代がやってくるのです。

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