宇文護:皇帝を操った独裁者は北周を発展させた功労者だった

周1.3 南北朝

宇文護(うぶん ご)は北周の皇族であり重臣。
皇帝以上の権力をもっていました。

対立する重臣を排除したり、意のままにならない皇帝を廃して独裁を行いました。

しかし最後は武帝に暗殺されてしまいます。

史実の宇文護はどんな人物だったのか紹介します。

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宇文護の史実

いつの時代の人?

生年月日:513年
没年月日:572年

姓 :宇文(うぶん)
名 : 護(ご)
小字:薩保
称号:晋国公
父:宇文 顥(うぶん こう)
母:閻姫
妻:河南元氏

子供:
宇文訓・宇文会・宇文至・宇文静・宇文深・宇文乾嘉・宇文乾基・宇文乾光・宇文乾蔚・宇文乾祖・宇文乾威

彼は6世紀に生きた北周の宰相。皇帝以上の権力を持っていました。

日本で飛鳥時代になります。

おいたち

513年。宇文 護は、北魏の武川(内モンゴル自治区フフホト)で生まれました。
父・宇文 顥(うぶん こう)は北魏の武人。
宇文一族は匈奴をそせんにもつ鮮卑系の遊牧騎馬民族です。

宇文 護は幼い頃から頭がよく父から可愛がられていました。

叔父の宇文泰も「この子は私に似ている」と褒めていました。

524年。六鎮の乱が発生。武川も反乱に巻き込まれました。父・宇文顥は叔父・宇文泰たちとともに地方の指導者・賀拔度拔のもとで反乱軍と戦いました。ところが父・宇文顥は反乱軍との戦いで戦死してしまいます。宇文 護が12歳のときでした。

526年。宇文 護は叔父・宇文泰(うぶん たい)の軍に入り働きました。

やがて叔父・宇文泰は武将たちのリーダー格になります。宇文護は宇文泰配下の武将として活躍しました。

西魏時代

534年。22歳のとき。北魏皇帝の孝武帝は重臣の高歓に実権を握られているのが嫌で宇文泰に助けを求めてきました。孝武帝は洛陽から長安に移動しました。孝武帝は孝武帝を迎えるために軍を派遣。その中に宇文護もいました。

皇帝の護衛で手柄をたてた宇文護は水池県伯になりました。

高歓は洛陽で独自に皇帝をたてて北魏が西魏と東魏に分裂しました。

叔父の宇文泰は皇帝以上の力を持つ西魏の最高権力者になりました。

宇文護も手柄を立てて出世しました。

543年。戦で瀕死の重症をおって部下の侯伏や侯龍恩に助けられました。宇文泰は宇文護を解任しましたが、後に復帰させました。

546年。中山公に出世しました。

549年。宇文泰は大柱国の于謹を南朝の梁に派遣しました。梁の都・江陵を攻撃させました。宇文泰は副官を務めました。宇文泰はこの戦いで迅速で的確な指揮を行い、水路を遮断。西魏軍が江陵を攻め落とすのに大きく貢献しました。この戦いで梁の元帝を死に追い込みました。そして宣帝を即位させました。

この功績で司空になりました。息子の宇文会は江陵公になりました。

宇文泰の跡を継いで宇文一族の長になる

556年。宇文泰が牽屯山(寧夏回族自治区凱旋門)を視察している時、病に倒れました。宇文泰は宇文護を牽屯に呼び出しました。国の政治と息子たちを任せました。何しろ宇文泰の息子・宇文覚はまだ15歳と若かったからです。

この時点で宇文泰が宇文一族で最も頼りにしていたのは宇文護でした。

宇文泰が死亡。宇文護が宇文一族の長になりました。

宇文護は長安に戻るまで宇文泰の死を秘密にしました。長安にもどると宇文泰の葬儀を行いました。跡継ぎの宇文覚はまだ15歳。有力な指導者を失った人びとは不安になりました。西魏は建国して年月が短く、兵力では東魏の方が上。宇文泰の指導力で保っていたようなものです。宇文護は武官・官僚や人びとをよくまとめました。

ところが宇文泰と一緒に戦った柱国将軍(西魏のトップクラスの重臣)はまだ若くて(宇文護は43歳ですが、柱国将軍達はもっと年上)地位が下の宇文護にはなかなか従おうとはしませんでした。

そこで宇文護は宇文泰と親しかった柱国将軍の于謹に協力してもらうことにしまいた。

于謹が宇文護が宇文一族の長老だからと言って宇文護に従うと、他の将軍たちも従いました。

北周・孝閔帝の時代

557年1月。宇文護は西魏の恭帝を脅迫。宇文覚に譲位させました。

宇文泰の時代から西魏の皇帝はお飾りの状態でした。西魏皇帝に断る力はありません。

宇文覚が皇帝(孝閔帝)になりました。
国号も周に改められました。歴史上は北周とよびます。

宇文護は古代周王朝を理想の国と考え。「皇帝」の称号をやめて「天王」を採用。宇文覚に「天王」と名乗らせました。

宇文護は大司馬になり「普国公」の称号が与えられ、大塚宰(大宰相)になりました。

于謹と李弼が参議になり宇文護を補佐する形で政治が行われました。

軍事と政治の権力を手にします。

古い世代の重臣が反発

ところが権力を独り占めする宇文護に、趙貴(ちょう き)と独孤信(どっこ しん)が宇文泰と一緒に戦っていた柱国将軍が反発。趙貴が宇文護の暗殺を企みました。趙貴は独孤信に相談して暗殺計画に加わるように持ちかけましたが。独孤信は暗殺には反対しました。

宇文護は宇文盛の密告で謀反を知り、趙貴を処刑します。独孤信は趙貴の計画を知りながら隠したという理由で罷免して自害に追い込みました。

9月。孝閔帝も李植ら家臣とともに宇文護を暗殺しようとしますが失敗。
宇文護は孝閔帝を廃位させ幽閉。後に殺害しました。

暗殺計画に関わった李植やその父・李遠も処刑されました。

宇文護は大冢宰になります。

宇文毓・明帝の時代

11月。孝閔帝の兄で、宇文泰の庶長子・宇文毓(うぶん いく)を皇帝にしました(明帝)。宇文毓は25歳。

558年。太師になりました。太師は皇帝を教え導く役とされます。

宇文護は内政の権限を明帝に渡しました。

しかし軍事の権限は宇文護が持っていました。

560年。宇文護はしだいに頭のよい明帝が邪魔になってきます。食事に毒を入れて暗殺しました。

宇文毓・武帝の時代

明帝の弟・宇文毓が皇帝になりました(武帝)。

即位してしばらくは武帝は宇文護のいいなりでした。操りやすいと思った宇文護は油断してしまいます。

563年。柱国将軍のひとり侯莫陳崇が「普国公は厄年らしい、普国公は死ぬだろう」と言ったのを聞きつけ屋敷を兵で包囲。侯莫陳崇を自害に追い込みました。

572年。地方から都・長安に戻った宇文護と会います。このとき、宇文護に対して高齢にもかかわらず酒好きな皇太后(叱奴太后)を注意するように頼まれました。

宇文護は叱奴太后に会いに行きました。ところが宇文護が叱奴太后に頼まれて詩を詠んでいると後ろから突然笏で突き倒されました。隠れていた武帝が襲ってきたのです。倒れた宇文護は宇文直にとどめを刺されました。

その後、宇文護の側近たちも粛清され。宇文護派は宮廷から一掃されました。

享年60。

有能な独裁者

宇文護は権力を独占し、対立する重臣たちを殺害しました。
相手が皇帝であっても自分の思い通りにならない場合は排除して、思い通りになる皇帝に交代させました。独裁者だったのは間違いありません。

しかし宇文護の時代、北周は発展しました。建国当時は北周より北斉の方が強かったのですが、宇文護の在任中に逆転することに成功。南北時代でも北周は最強の国になりました。

良い面と悪い面がある人物なのです。
頭がいいからこそ権力を求めるのかもしれませんね。

TVドラマの宇文護

蘭陵王 2013年、中国台湾 演:鄭暁寧
蘭陵王妃 2016年、中国 演:林韦辰
独孤伽羅 2018年、中国 演:徐正曦(シュー・ジェンシー)
(原題:獨孤皇后) 2019年、中国 演:蒋恺

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