宇文護:皇帝を操った独裁者は北周を発展させた功労者でもあった

周 4.2 南北朝

宇文護は北周の皇族であり重臣。
皇帝以上の権力をもっていました。

対立する重臣を排除したり、意のままにならない皇帝を廃して独裁を行いました。

しかし最後は、武帝に暗殺されてしまいます。

史実の宇文護はどんな人物だったのか紹介します。

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宇文護の史実

いつの時代の人?

生年月日:513年
没年月日:572年

名称:宇文 護(うぶん ご)
称号:晋国公
父:宇文 顥(うぶん こう)
母:閻姫
妻:河南元氏

子供:
宇文訓・宇文会・宇文至・宇文静・宇文深・宇文乾嘉・宇文乾基・宇文乾光・宇文乾蔚・宇文乾祖・宇文乾威

彼は6世紀に生きた北周の宰相。皇帝以上の権力を持っていました。

日本で飛鳥時代になります。

おいたち

513年。宇文 護が誕生。
父・宇文 顥(うぶん こう)は北魏の武人。
宇文一族は鮮卑系の遊牧騎馬民族です。

524年。宇文 護が12歳のとき戦死しました。

宇文 護は叔父・宇文泰(うぶん たい)のもとで働き手柄をたてました。

西魏時代

534年。22歳のとき。西魏が建国。

宇文泰は皇帝以上の力を持つ西魏の最高権力者になりました。
このころになると宇文護も重臣の一人になりました。

556年。宇文泰が死亡。宇文覚があとを継ぎました。宇文覚は15歳だったので宇文護が後見しました。実際には宇文護が権力を持っていました。このとき43歳。

北周時代

宇文覚・孝閔帝の時代

557年1月。西魏の恭帝から宇文覚に皇帝の座を移し宇文覚が皇帝(孝閔帝)になりました。
国号も周に改められました。歴史上は北周とよびます。

ところが権力を独り占めする宇文護に趙貴と独孤信が反発。趙貴が謀反を企みました。宇文盛の密告で謀反を知り、趙貴を処刑します。独孤信を罷免して自害に追い込みます。

9月。孝閔帝も家臣たちとともに宇文護を暗殺しようとしますが失敗。
宇文護は孝閔帝を廃位させ幽閉。後に殺害しました。

宇文毓・明帝の時代

11月。孝閔帝の兄で、宇文泰の庶長子・宇文毓(うぶん いく)を皇帝にしました(明帝)。宇文毓は25歳。

558年。太師になりました。太師は皇帝を教え導く役とされます。

宇文護は内政の権限を明帝に渡しました。

しかし軍事の権限は宇文護が持っていました。

560年。宇文護はしだいに頭のよい明帝が邪魔になってきます。食事に毒を入れて暗殺しました。

宇文毓・武帝の時代

明帝の弟・宇文毓が皇帝になりました(武帝)。

即位してしばらくは武帝は宇文護のいいなりでした。操りやすいと思った宇文護は油断してしまいます。

572年。地方から都・長安に戻った宇文護と会います。このとき、宇文護に対して高齢にもかかわらず酒好きな皇太后(叱奴太后)を注意するように頼まれました。

宇文護は叱奴太后に会いに行きました。ところが宇文護が叱奴太后に頼まれて詩を詠んでいると後ろから突然笏で突き倒されました。隠れていた武帝が襲ってきたのです。倒れた宇文護は宇文直にとどめを刺されました。

その後、宇文護の側近たちも粛清され。宇文護派は宮廷から一掃されました。

享年60。

有能な独裁者

宇文護は権力を独占し、対立する重臣たちを殺害しました。
相手が皇帝であっても自分の思い通りにならない場合は排除して、思い通りになる皇帝に交代させました。独裁者だったのは間違いありません。

しかし宇文護の時代、北周は発展しました。建国当時は北周より北斉の方が強かったのですが、宇文護の在任中に、逆転することに成功。南北時代でも北周は最強の国になりました。

良い面と悪い面がある人物なのです。
頭がいいからこそ権力を求めるのかもしれませんね。

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