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耶律 普賢奴(隆慶)聖宗を支えた契丹最強の皇子

契丹 9 その他の国や民族

耶律 普賢奴(やりつ・ふげんど)は契丹(遼)の第6代皇帝 聖宗の弟。

漢名は 隆慶(りゅうけい)。

そのため耶律隆慶(やりつ・りゅうけい)とも言われます。

契丹(遼)は皇位継承のルールがはっきりと決まってなく。権力争いがよく起こりました。一族内の争いは何度か起きています。

でも仲のよい兄弟もいます。聖宗 耶律文殊奴とその兄弟です。

特に普賢奴は蕭太后の信頼が厚く、兄の聖宗 耶律文殊奴を支え続けました。

史実の耶律普賢奴はどんな人物だったのか紹介します。

 

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耶律 普賢奴(隆慶)の史実

いつの時代の人?

生年月日:973年
没年月日:1016年

姓 :耶律(やりつ)氏
字 :燕隱
小字:普賢奴(ふげんど)
漢名:劉隆慶(りゅう・りゅうけい)

国:大契丹国(遼)
地位:梁王 → 普王 → 秦晋王 → 皇太叔(追尊)

父:景宗
母:睿智蕭皇后
妻:秦國妃蕭氏
  

子供:5男3女

彼は大契丹国(遼)の第6代皇帝聖宗の弟です。

日本では平安時代になります。

おいたち

景宗 の時代。

耶律普賢奴は 973年に生まれました。

父は景宗 耶律明扆

母は皇后 蕭綽

普賢奴は次男です。

2歳違いの兄・文殊奴(聖宗)がいます。

普賢奴は幼いころから頭が良くて力が強く、同年代の子供たちと戦争ごっこをするのが好きでした。そのときは普賢奴が指揮官になり、逆らうものはいなかったといいます。

成長するつれて乗馬や弓の腕前も上達。両親からも可愛がられました。

耶律隆慶は8歲のときに王の爵位を与えられました。

乾亨4年(982)。景宗耶律明扆が駕崩。

聖宗の時代

兄の聖宗 耶律文殊奴が即位しました。

このとき皇后蕭綽は29歲。長男・文殊奴(隆緒)は12歲、普賢奴(隆慶)は10歲。胡都堇(隆裕)4歲。薬師奴でした。

当時はまだ皇族の力が強く、幼い皇帝と皇太后にとっては苦しい時期でした。

文殊奴は母の力になりたくてますます乗馬や弓術の練習に励みました。聖宗は成長するに従い、皇族よりも兄弟を頼るようになります。母・蕭太后の教育の影響もあったでしょう。

統和16年(998)。宋国王・南京留守の耶律休哥が死去。聖宗は朝議を5日休んだ後、恒王 普賢奴を梁王に任命・南京留守にしました。このとき26歳でした。20歲の胡都堇は呉国王になりました。

契丹(遼)には5つの首都があります。その中でも南京(今の北京)は漢人の多く住む都市で、政治・経済・軍事でも特に重要な都市でした。

そのため南京留守には重要な人物が選ばれています。歴代の南京留守には蕭思温、高勳、韓匡嗣(韓徳讓は父の代理をしていた)、耶律休哥などがいます。

普賢奴はそれだけ聖宗や蕭太后から信頼されていたのです。

宋との戦い

統和17年(999年)。南征(宋攻め)に参加。
耶律 普賢奴の率いる部隊が進軍すると、北宋の将軍・范廷召が方陣を布いて待ちうけていました。耶律普賢奴は諸将に先陣を切る者がいないか訊ねました。すると蕭柳が志願したので良い馬を与えて先陣を任せました。蕭柳が攻めると宋軍が少し後退。そこで普賢奴の部隊が攻撃開始。宋軍を撃破しました。

統和19年(1001年)。聖宗と蕭太后は再び南伐。梁国王 普賢奴も出陣しました。

宋の武将・王継忠を捕らえる

統和21年(1003年)。耶律普賢奴と耶律奴瓜は 蕭撻凜たちとともに宋の望都(河北保定)を包囲しました。すると宋の王継忠、王超、桑贊が援軍にきました。

契丹軍と宋軍は一昼夜戦い王継忠を包囲、宋の補給ルートを断ち切りました。王超、桑贊は撤退。契丹軍を恐れて王継忠を助けようとはしませんでした。

王継忠は援軍や補給が来ない中で戦い続けましたが、孤立した王継忠は降伏しました。

蕭燕燕は王継忠を高く評価。官職を与え開国功臣・康默記の一族の娘と結婚させました。蕭燕燕は王継忠を使って宋との和睦を進め。

統和21年(1003年)。澶淵の盟が結ばれ。契丹と宋は和睦しました。

南征が終了。耶律普賢奴は南京(今の北京)に戻りました。

存在感の高まる皇子

耶律普賢奴は蕭太后から信頼が厚い皇子でした。直属の軍隊の敦睦宮(赤寔得本斡魯朵)を持ち特に有力な人物になります。

南京留守を長く務めた耶律普賢奴(隆慶)は「契丹最強の皇子」として宋でもよく知られる人物せした。

南京の近くには炭山という場所があり、蕭太后は避暑地として使っていました。炭山に蕭太后が来ると耶律普賢奴は南京の長官として蕭太后を出迎えてもてなしました。

 

蕭太后の死後・ますます隆慶の存在が大きくなる

統和27(1009)12月。蕭太后が死去。その後、大丞相 普国王 耶律隆運(韓徳讓)も死去。

すると宋では様々な噂が流れました。

皇帝が大臣を殺した。大臣が謀反を起そうとした。兄弟が対立している。耶律隆慶は宋に手紙を出した。等など。まるで契丹が二つに分裂するかのように言う人もいました。

すべて噂好きの宋人が流したもの。聖宗は警戒はしたかもしれませんが、そのような噂には惑わされませんでした。

でも宋の真宗 趙恒が「このような噂を信じず国境を警戒するように」と命令を出すほどでした。

それだけ蕭太后と韓徳讓の存在が大きく、耶律隆慶は聖宗に対抗できるほど大きな存在と思われていたのです。

統和30(1012)。聖宗は新しい人事を発表。
梁国王 普賢奴(隆慶)を普王にして南京留守を引き続き担当させ。
弟の楚国王 胡都堇(隆祐)を斉国王にして東京留守に任命。
邢抱質を大同節度使(西京)。
韓德讓の甥・耶律遂貞(韓制心)を遼興軍節度使にして平州を守らせました。

兄・聖宗を二人の弟や若い世代が支える体制ができました。普賢奴以外の有力な兄弟や武将にも軍を任せました。普賢奴だけが飛び抜けて強い力を持つのを防ぐ意味もあります。

さらに聖宗はその年の12月に改元後。隆慶を「大元帥」に任命。「秦普国王」の爵位を与えました。契丹では初めての二文字の爵位です。(普通は○国王)

聖宗は弟の耶律普賢奴(隆慶)に用心しつつも最高の待遇を与えました。耶律普賢奴(隆慶)も高い待遇に奢ることなく兄の聖宗に従いつづけました。

開泰5年(1016)。北安州を旅行中に病気になり。その年の間に死亡しました。享年43歳。

その知らせが上京に届くと聖宗は非常に嘆き悲しみ、7日間朝議を休んだといいます。

死後。「孝貞皇太叔」の称号が与えられました。

ドラマ

大宋宮詞 2021年、中国 演:楊曉波  役名:耶律隆慶

 

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