延齢君(ヨンリョングン)李昍(イ・フォン)は粛宗の6男、末息子です。
生存した三人の息子(景宗・英祖・延齢君)の中で、粛宗がもっとも愛した息子だといいます。
若くして亡くなりましたが、長生きしていれば後継者争いに加わっていたかもしれません。
史実の延齢君(ヨンリョングン)はどんな人物だったのか紹介します。
延齢君(ヨンリョングン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1699年6月13日
没年月日:1719年10月2日
名前:李昍(イ・フォン)
称号:延齢君(ヨンリョングン、えんれいくん)
父:粛宗
母:䄙嬪朴氏
子供
彼が生きたの朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1699年、19代国王粛宗の6男として昌慶宮で産まれました。末子になります。
母は当時粛宗の寵愛を集めていた䄙嬪朴氏。
粛宗は延齢君を溺愛していました。
1703年。4歳。母・䄙嬪朴氏が亡くなりました。母の死が理解できずさまよい歩く延齢君を見て粛宗は涙を流したといいます。
このとき「延齢君」の称号が与えられました。数え歳で5歳でした。王室のきまりでは数え歳で6歳になるまで君号はあたえない事になっていました。しかし粛宗は他界した䄙嬪朴氏の喪主を勤めるにはふさわしい身分が必要として強引に決めたのです。反対する重臣は役職を取り上げるなど、粛宗は厳しい処分をしました。
粛宗は延齢君を「優しくて賢い」と褒め。母が早くに亡くなったこともあり延齢君を可愛がりました。このとき生存している3人の王子(世子、延礽君、延齢君)の中で延齢君を一番可愛がったといいます。
1707年。8歳。金東弼の娘と結婚しました。
1708年。9歳。粛宗は貞明公主の邸宅の邸宅を買収して延齢君宅にしました。粛宗は延齢君の住む邸宅のために数万両を使いました。趙泰耉(チョ・テグ)が延礽君のときが2000両だったのに対し多すぎると反対しましたが聞き入れませんでした。
貞明公主の邸宅は広大な屋敷でした。貞明公主の死後、延礽君が購入しようとしていたのを粛宗が禁止して延齢君のものにしたのでした。
その後も粛宗は改築費用に多額を費用をつぎ込みました。
1711年。12歳。天然痘にかかりました。
1716年。17歳。昌慶宮を出た。
1717年。18歳。五衛都摠府都摠管になりました。
1718年。19歳。司饔院都提調に異動。
1719年。20歳。亡くなりました。享年20歳。
母の墓の隣に埋葬してほしいと遺言を残しました。
延齢君は粛宗が病気になった時看病するなど親孝行に勤めました。仁元王后が病気になったときも看病したといいます。
死後、延齢君の子孫がいないことを残念に思った粛宗は昭顯世子のひ孫・密豊君の次男・商原君が延齢君の養子となり、祭祀を行うことになりました。
儒教では祖先の霊を祀るため子孫が必要になるのです。死んだ人に子供がいない場合は、養子が迎えられることがありました。
ところが1728年。李麟佐の乱(イ・インジャの乱)で商原君の父と兄が謀反に加担したとして養子は解消になりました。
長生きしていれば王になった?
粛宗は晩年になって世子 李昀(イ・ユン、後の景宗)を後継者としてふさわしいのか疑問をもつようになったといわれます。
世子 李昀は病弱で母(禧嬪張氏)の死後は精神的にも不安定になっていました。
1717年。粛宗が重臣の閔鎭遠(ミン・ジノン)を呼び出して意見を聞いた時。閔鎭遠は「今の世子は重責に耐えられない。延齢君がふさわしい」と言いました。しかし粛宗は他の大臣とも話した結果、世子は変えませんでした。
1719年。粛宗は延礽君(英祖)に息子(後の孝章世子)が誕生した時。それが淑嬪崔氏の喪の期間だったので延礽君を批判。延礽君を嫌いました。
晩年の粛宗は延齢君を候補に考えていたようです。
でも延齢君は粛宗よりも先に亡くなったので後継者にはなりませんでした。
もし長く生きていれば後継者争いも違ったものになったのかもしれません。後継者争いでは重要な人物でしたが意外とドラマには登場しません。
ドラマ
ヘチ SBS、2019年、演:ノ・ヨンハク
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