楊麗華は隋の初代皇帝・楊堅と独孤伽羅の娘です。
北周皇帝・宣帝と結婚して皇后になりましたが。宣帝の時代には皇后が4~5人もいました。
苦労の耐えない皇后生活でしたが自分から他の皇后や側室と争うことはなかったと言われます。
父・楊堅が北周を滅亡させ自ら即位すると皇后の地位を失います。
隋では王女として扱われましたが両親との仲はあまりよくなかったようです。
史実の楊麗華はどんな人物だったのか紹介します。
楊麗華の史実
いつの時代の人?
生年月日:561年
没年月日:609年
名称:楊 麗華(よう れいか)
周時代:天元皇后
隋時代:楽平公主
父:楊堅(文帝)
母:独孤伽羅(文献皇后)
夫:宇文贇(宣帝)
子供:宇文娥英(娘)
彼は隋の初代皇帝・楊堅と独孤伽羅の娘です
日本では飛鳥時代になります。
北周時代
561年に生まれました。
父は楊堅。北周の将軍。後に隋の初代皇帝・文帝になった人物です。
母は独孤伽羅。北周の将軍・独孤信の娘です。独孤家は北周では高い地位につく家柄でした。
麗華は二人の間に生まれた最初の子供です。
皇太子・宇文贇(うぶん いん)の妃になります。
宇文贇は武帝:宇文邕(うぶん よう)の息子です。
578年。武帝が死去。
北周の皇后時代
宇文贇が即位しました(宣帝)。
麗華は皇后になります。
娘の娥英が生まれました。
父・楊堅は上柱国・大司馬になり大きな権力を手にしました。
579年2月。宣帝が天元皇帝を自称しました。麗華は天元皇后と呼ばれました。
7月。宣帝は女好きだったので麗華以外に3人の皇后をもちました。
朱満月が天皇后になりました。宣帝の侍女でしたが宣帝の子を産んでいました。朱満月の子が後の静帝になります。
側室の陳月儀が天左皇后になりました。
側室の元楽尚が天右皇后になりました。
580年。麗華は天元大皇后の称号を与えられました。
側室の尉遅 熾繁(うっち しょくはん)が天左大皇后になりました。
宣帝の時代には麗華を含めて皇后が5人もいるのです。
4人の皇后は宣帝をめぐり争いましたが、麗華は争いに加わろうとはしませんでした。
麗華は穏やかな性格だったといいます。宣帝がたくさんの女性を集め皇后を増やしても嫉妬心を見せることはありませんでした。
そのため他の四皇后や後宮の女性たちからも尊敬を集めました。
しかし宣帝の性格が激しくなっています。あるとき宣帝は麗華を責めて罰を与えようとしました。麗華は冷静に受け答えしますが、宣帝は逆上して麗華を死刑にしようとします。
麗華の母・独孤伽羅はこのことを聞くと宮殿を訪れて宣帝に謝罪。頭から血を流すまで床に頭をぶつけて誤りました。母のとりなしで麗華は命が助かりました。
皇太后時代
5月。宣帝が死去。
あとを継いだ静帝は麗華を皇太后にしました。
他の皇后たちは出家します。
楊堅の部下の劉昉・鄭訳らが宣帝の遺言を偽造。楊堅が宣帝の後見を任されたと発表します。
麗華は自分の父が幼い静帝を助けてくれると思って喜びました。ところが父・楊堅が皇帝の座を狙っていることがわかり不満になります。父に対して反抗的な態度をとるようになりました。
隋が建国
581年2月。楊堅は静帝から皇帝の座を奪いました。
北周が滅亡。隋が建国します。
楊堅は隋の初代皇帝・文帝になります。
麗華は父の行いを許せません。
文帝は内心申し訳ないと思っているので麗華を怒ることができません。
586年。文帝は麗華に楽平公主の地位を与えました。
文帝は麗華を再婚させようとしましたが、麗華は拒否。
604年。文帝が死去。弟の陽広(よう こう)が即位しました(煬帝)。
609年。煬帝とともに張掖(ちょうえき・現在の中国甘粛省張掖市)に行きます。その地で死亡しました。享年49.
TVドラマの楊麗華
・独孤伽羅~皇后の願い~(原題:独孤天下)
2018、中国 演:郜思雯
史実を大幅に脚色。楊 麗華は宇文護と独孤般若(伽羅の姉)の娘になっています。伽羅がひきっとって自分の娘として育て。やがて楊家の娘になるというストーリーです。幼いころから武帝/宇文邕に可愛がられます。楊堅が皇帝になるまでが長く、成人した麗華の出番は少ないです。麗華と両親の確執もありません。
・独孤皇后
2019、中国 演:宋奕星
史実通り楊堅と独孤伽羅の娘です。北周の後宮内での争いが描かれ、麗華が皇后になった後、他の妃や側室と争います。隋建国後は楊堅・伽羅と嫁ぎ先を潰された麗華の関係はうまくいっていません。親子間の対立も描かれます。
独孤伽羅が王朝内の権力争いにラブストーリーを絡めた内容なのに対し。
独孤皇后は宮廷内の争い、家族間の争いが多いです。
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