貞熹王后尹氏(チョンヒワンフ・ユン氏)は朝鮮初の大王大妃・隠れた実力者だった

2017年9月24日

貞熹王后(チョンヒワンフ)は李氏朝鮮7代国王世祖の正室。ドラマでは脇役として登場することが多く。あまり印象にないかもしれません。

貞熹王后は李氏朝鮮で初めて垂簾聴政を行った人物で。初めて大王大妃になった人なんです。

同じ時代には世祖、韓明澮、仁粋大妃など個性の強い目立つ人が多いのであまりめだちませんが。実は強い影響力を持っていたようですよ。

史実のどんな人物だったのか紹介します。

 

貞熹王后尹氏・(チョンヒワンフユン氏)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1418年12月8日
没年月日:1483年5月6日

名前:尹氏
称号:貞熹王后(チョンヒワンフ)、慈聖大妃大妃
父:尹璠
母:仁川李氏
夫:世祖

子供
長男:桃源君
長女:懿淑公主
次男:睿宗

懿淑公主には姉がいたという説もあります。

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の7代世祖の正室。9代成宗の時代まで生きました。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

1418年。 忠清南道で産まれました。

1428年。世宗の次男、首陽大君(世祖)と結婚しました。

本当は姉が首陽大君と結婚するはずだった

ところが最初は尹氏の姉が結婚するはずだったのです。
候補になった姉を見るため、使者が尹氏の家をおとずれました。尹氏は母の後ろに隠れていました。ところが王室の使者は尹氏をみつけました。使者は尹氏が美しかったので、姉ではなく妹の尹氏を正室に推薦。正室に決定したのです。

首陽大君クーデターの影の功労者?

1453年。首陽大君がクーデター(癸酉靖難)を起こし、政敵の権力を得ました。

このとき、事前に情報が漏れたという噂が飛び交ったので首陽大君は決起をためらいました。ところが、尹氏は夫に鎧を着せて励まして送り出しました。

このとき決起をためらう首陽大君を尹氏がけしかけてなかったら、クーデターは成功していなかったかもしれません。

尹氏はかなり強気な女性だったようです。

貞熹王后の誕生

1455年。首陽大君は端宗から王位を奪って王(世祖)になりました。
尹氏は王妃(貞熹王后)になりました。

王族とはいえ次男坊と結婚(しかも姉が結婚するはずの相手)した尹氏はいつのまにか王妃になりました。でも喜びに浸ることはできませんでした。次々と不幸が襲います。

二人の息子が死亡

貞熹王后が王妃になって1年後。世子だった長男の桃源君(懿敬世子)が病気に倒れました。

桃源君は頭がよく礼儀正しい子供でした。貞熹王后は自慢の息子を救うため、王宮に大勢の僧侶をよんで祈祷を行いました。

しかしその願いも虚しく。
1457年。桃源君は死亡しました。

譲位させた端宗よりも息子が先に死んでしまいました。桃源君が死んだ2ヶ月後、世祖は端宗を廃位して処刑しました。

ところが世間では「桃源君が死んだのは端宗の母・顯德王后の呪いだ」という噂が広まりました。

悲しみに暮れた貞熹王后はますます仏教にはまります。寺を建てて息子の供養を行いました。

1468年。世祖が病気で死亡しました。

息子・睿宗が即位。大妃になる

次男・乽山君が王(睿宗)になりました。

貞熹王后は王大妃(慈聖大妃)になりました。

睿宗は18歳。自分で政治が出来る歳でしたが、貞熹大妃が摂政になりました。李氏朝鮮初の垂簾聴政の始まりです。

1469年12月31日。睿宗が病気で死亡しました。
即位してわずか1年2ヶ月でした。

睿宗が死亡

再び息子を失う悲しみに襲われました。しかしいつまでも悲しみに浸っている訳にはいきません。

1470年1月1日。桃源君の息子・乽山君(者乙山君とも書きます)を睿宗の養子にすると発表。次の王に決定しました。成宗の誕生です。

実はまだ睿宗が病床にあったとき既に後継者選びは始まっていました。

睿宗には息子・齊安大君がいましたがまだ3歳。あまりにも幼すぎます。

そこで貞熹大妃はすでに十代になっていた桃源君の息子を次の王にしようと考えました。期待していた桃源君の息子ですから申し分ありません。桃源君には二人の息子がいました。月山君と乽山君です。

月山君は15歳。乽山君は12歳でした。普通なら長男の月山君が王になるところです。

ところが重臣の韓明澮たちは乽山君を次の王に推薦します。韓明澮の娘が乽山君と結婚していたからです。

貞熹大妃もあっさり認めました。月山君は病弱だからという理由ですが、12歳の乽山君なら垂簾聴政がしやすいと考えたからだといわれます。

成宗が即位、再び垂簾聴政

結局、桃源君の次男・乽山君が王(成宗)になりました。

貞熹大妃は大王大妃になりました。李氏朝鮮初の大王大妃の誕生です。

貞熹大妃は摂政となり、韓明澮、申叔舟らとともに政治を行いました。垂簾聴政では王に決定権はなく、貞熹大妃や重臣たちによって決定しました。

成宗の母は仁粋大妃です。でも、王室での序列は貞熹大妃が上だったので貞熹大妃が摂政になったのです。

李氏朝鮮の垂簾聴政(すいれんちょうせい)

垂簾聴政というと、王様の後ろに御簾を垂らしてその中に女性が座り命令を出す場面が描かれます。確かに古代中国ではそのようなこともあったようです。ところが李氏朝鮮では違いました。

李氏朝鮮では大妃が摂政になって政治をすることを垂簾聴政とよんでいました。王と家臣が会議を行なったあと、大妃が報告を受けて意見を出していました。

大妃が会議の場に出て御簾の中に座っていたわけではありません。決定権が大妃にあったのです。

王になれなかった王子への気遣い

斎安大君、月山君は王にはなれませんでした。彼らが問題を起こしたり。逆に謀反の疑いをもたれて政争に巻き込まれたりしないように気を配りました。

月山君に対しては、不満を持たないように「佐理功臣」という特別な位を授けました。月山君は王になれなかった不満をもらすことはありませんでした。もともと詩や文学が好きだった月山君は自然豊かな場所に別荘をたてて文学三昧の穏やかな生活をおくりました。

斎安大君に対しては世宗の7男・平原大君の養子にしました。政争に巻き込まれて命を落とさないようにするためだったともいわれます。斎安大君も政治には関心をもたず、芸術を好む風流人として生きました(私生活ではいろいろあったみたいですが)。

廃位尹氏との関わり

廃位尹氏(斎献王后尹氏)、貞顯王后尹氏はもともと側室の出身です。貞熹大妃が彼女たちを王宮に入れて淑儀にしました。

後に廃位尹氏は廃妃となり、死罪になります。ドラマでは貞熹大妃が廃位尹氏を助けようとする場面があります。ところが実際には貞熹大妃も廃位尹氏のことは快く思ってなかったようです。仁粋大妃に協力したとも言われます。

貞熹大妃、貞顯王后は坡平尹氏。廃位尹氏は咸安尹氏。咸安尹氏は坡平尹氏から別れた一族です。

あざやかな引き際

1476年。成宗が成人したので貞熹大妃は摂政を退きました。

貞熹大妃は権力への関心は強かったのですが、引き際をわきまえていました。

垂簾聴政が終わると政治への関わりをやめ。温泉と仏教の信仰を生きがいに暮らしました。

仁粋大妃、明聖大妃、文定大妃、貞純大妃など。大妃として権力を握り、なかなか権力を手放さなかった人は多いです。でも貞熹大妃のように権力を手にしながら引き際の鮮やかな人は珍しいです。

1483年。滞在先の療養地で亡くなりました。享年65。

貞熹王后の一族・尹氏出身の王族

貞熹王后の実家・尹氏は名門でした。中期の李氏朝鮮では多くの王室関係者を出しています。

11代中宗から13代明宗の時代に大尹派(テユン派)と小尹派(ソユン派)に分かれて対立します。どちらも貞熹王后の実家の子孫です。

貞熹王后の兄・尹士昐の子孫。
9代成宗の3番めの正室・貞顯王后
11代中宗の2番めの正室・章敬王后(大尹派)

貞熹王后の弟・尹士昕(ユン・サフン)の子孫。
11代中宗の3番目の正室・文定王后(小尹派)
12代仁宗の側室・淑嬪尹氏

 

テレビドラマの貞熹王后

雪中梅 MBC、1984年〜1985年 演:チョン・ヘソン
独裁者への道 KBS 1990年 演:チェ・ラン
ハンミョンフェ KBS、1994年 演:ホン・セミ
王と妃 KBS 1998年 演:ハン・ヘスク
王と私 SBS 2007年 演:ヤン・ミギョン
王女の男 KBS 2011年 演:キム・ソラ
インス大妃 JTBC 2011年 演:キム・ミスク

 

 


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