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鳳城君(ポンソングン) ユン・ウォニョンに陥れられた不運な王子

3 李氏朝鮮の王子

 

「オクニョ・運命の女」(原題の漢字表記は獄中花)にときどき名前が登場する鳳城君(ポンソングン)は実在の人物。

中宗の次男でした。

大尹派と小尹派の派閥争いに巻き込まれて命を落とした王子です。

史実の鳳城君(ポンソングン)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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鳳城君(ポンソングン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1528年
没年月日:1547年
名前:李岏(イ・ワン)
父:11代国王・中宗
母:熙嬪洪氏(フイビンホン氏)
妻:鄭惟仁の娘
子供:なし

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に11代中宗~13代明宗の時代です。

日本では戦国時代になります。

 

おいたち

 父は11代国王・中宗。母は熙嬪洪氏(フイビンホン氏)。

12代国王・仁宗、13代国王・明宗とは異母兄弟になります。

1545年ごろ。鄭惟仁の娘と結婚しました。

母・熙嬪洪氏は士林派の敵

中宗を担いだ重臣たちが燕山君を倒すため起こしたクーデター(中宗反正)をおこしました。そのあと、重臣たちは中宗反正で手柄を立てた洪景舟(ホン・ギョンジュ)の娘を中宗の側室にしました。それが熙嬪洪氏です。熙嬪洪氏は中宗の寵愛をうけ、宮廷内で力をつけます。

熙嬪洪氏は父・洪景舟の後ろ盾となり、対立する士林派の追放に関わりました。

中宗が死亡し、12代仁宗が即位しました。
大尹派の尹任(ユンイム)が政治の実験を握ります。尹任は士林派を採用しました。

1445年。12代仁宗が死亡。13代明宗が即位しました。

乙巳士禍

明宗が即位すると文定大妃が摂政になりました。文定大妃の一族・小尹派が力をつけます。

尹元衡(ユン・ウォニョン)は大尹派や士林派を削除しようと考えます。

尹元衡は尹任(ユンイム)が鳳城君や桂林君(ギェリムグン)を王にしようとしていると噂を流し、尹任とその仲間を捕らえ処刑させました。

鳳城君はまだ若かったので処刑されずにすみました。

しかしその後も鳳城君を担いで謀反を企てているという噂が出ます。そのたびに明宗は鳳城君をかばいましたが。鳳城君の母・熙嬪洪氏は心労で病気がちになり宮殿を出ていきます。

1546年9月(明宗元年)。謀反の噂は収まることはなく結局、鳳城君は流刑になりました。

しかし鳳城君は流刑先に送られる途中で病気になり、平昌から動けなくなりました。流刑先を平昌に変更して治療を受けることになりました。

1547年(明宗2年)。ユン・ウォニョンら小尹派を批判する文書が町中に出回ります。

ユン・ウォニョンたちは、このようなことになるのはユンイム達や鳳城君の処分を軽くするからだと主張。

明宗はかばいきれずに鳳城君に自決の命令を出しました。

命令を聞いた鳳城君は風呂に入ったあと自殺しました。

享年20歳。

 

鳳城君のまとめ

 

鳳城君は頭がよく王になれる器だったとの評判もあり、文定大妃と小尹派に抵抗する人々から抵抗のシンボルとして担がれることもありました。

しかし鳳城君本人は謀反を起こそうという意志はなく。謀反の疑いもユン・ウォニョンらのでっちあげだといわれています。

大尹派と小尹派の争いに巻き込まれて命を落とした不運な王子です。

1547年(宣祖1年)。明宗の亡き後、宣祖が即位すると王族の身分が回復されました。

1732年(英祖8年)。英祖によって「懿愍」の称号が与えられました。

「オクニョ」の時代は既に明宗が成人している時代。このときには鳳城君はすでに亡くなっています。反対派の名前として時々鳳城君派が出てくるのも、鳳城君を担いで抵抗していた人たちがまだ残っていたからなのでしょう。

 

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