ホ・ファンオク(許黃玉)、キムスロの妻はインドの王女だったの?

2018年7月5日

許黃玉(ホ・ファンオク)は金官国(駕洛国)の初代国王・金首露(キム・スロ)の妃。

古代インドのアヨーディヤー(Ayodhya)国の王女だと言われています。

金海金氏と金海許氏の祖先になった人だといわれています。

史実の許黃玉(ホ・ファンオク)はどんな人物だったのか紹介します。

許黃玉(ホ・ファンオク)の史実

いつの時代の人?

生年月日:西暦33年
没年月日:西暦189年

名前:許黃玉(ホ・ファンオク)
称号:許皇后、普州太后
父:不明
母:不明
兄:張裕画像(長遊和尚)
夫:首露王(金官国初代国王)

子供
長男:居登王(金官国2代国王)
他:息子9人。
息子の二人が母方の許氏を名乗り、金海許氏の祖先となりました。

娘1人。

加羅(伽耶)諸国連合の金官国初代国王・首露王の妻です。

インドの姫が夢のお告げで金官国の王妃に

高麗時代に書かれた「三国遺事」という説話集によると阿踰陁國(アヨーディヤー国)の姫だったといわれます。

阿踰陁國の国王と王妃は夢でお告げを聞きました。既に亡くなってた先の王が夢に出てきて娘を金官国の首露王の妃にするように言ったというのです。

そこで王と王妃は、娘(許黃玉)に大勢の従者をつけて金官国に送り出しました。

許黃玉は従者とともに金海海岸に到着しました。

首露王は留天干(ユチョンガン)と神鬼干(シングィガン)など多くの臣下を派遣して、姫とその一行を出迎えました。

子沢山

許黃玉(ホ・ファンオク)は太子の居登公など10男1女をもうけ、子宝に恵まれました。

長男の居登は2代目国王となり、金海金氏の祖先となりました.

許黃玉(ホ・ファンオク)は息子の2人に自分の姓をうけつぐように首露王に願いました。2人の息子は姓を許氏に変えました。これが金海許氏の祖先です。

他の息子たちは出家して僧になりました。

仏教を広めた

許黃玉(ホ・ファンオク)と兄の張裕画像(長遊和尚)は地域に仏教を広めたといいます。長遊和尚は金海に長游庵を建て仏像を置きました。舎利塔も作ったといいます。

西暦188年死去。157歳だったといいます。おどろくほど長生きです。現実に157歳生きたわけではないでしょう。存在そのものが架空か、年の数え方が現代とは違うか、年齢はあとから作ったのだと考えられます。

亀旨峰に葬られたといいます。現代では亀旨洞の古墳が許黃玉の陵墓だと信じられているようです。

許黃玉の出身地?アヨーディヤーとは

アヨーディヤーは古代インドにあった都市。古代コーサラ国の都でした。

コーサラ国は仏教の開祖ゴータマ・シッダールタの出身国だといわれています。

紀元前10ごろから存在し紀元前4世紀にマガダ国に併合されるまで存在した国だといわれます。マガダ国はその後も発展してマウリア朝となり、最盛期にはインドをほぼ統一しました。

そのため仏教関係の経典では神聖視される地域です。

現代のインドのウッタル・プラデーシュ州北部ファイザーバード県になります。

本当にインドの王妃だったの?

1~2世紀の古代にインドと朝鮮半島に交流があったのでしょうか?

韓国の歴史学会でも許黃玉(ホ・ファンオク)は外国出身、海を渡って南方から来た。とは考えられています。

ですが、インドのアヨーディヤー出身は作り話の可能性が高いです。

インド人なのに「許黃玉」と漢式の名前を名乗ること自体が不自然です。帰化後に名前を変えたのだとしてもあえて息子に「許」姓を受け継がせる必要もありません。許黃玉はもともと「許」姓を名乗っていた一族だと考えるのが妥当でしょう。

仏教伝来後に祖先の話が脚色されたと考えられています。祖先が仏教の聖地から来たといえば箔がつくからです。

似たような話は仏教の広まった東南アジアにもあります。朝鮮半島の南部には南方系の遺伝子を持つ人もいますので、東南アジアか太平洋から来た民族だったのかもしれません。

許一族は海上交易を行う集団だったと考えられます。その勢力を首露王が取り込むことで勢力拡大を狙ったのでしょう。

許黃玉(ホ・ファンオク)は海を渡って南方から来たのかもしれないけれど、どこの国なのかはよくわからない。というのが本当のようです。

ドラマ

鉄の王キム・スロ MBC 2010年 演:ソ・ジヘ

古代

Posted by Fumiya


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