清朝の皇族にはさまざまな爵位が与えられました。
その中でもちょっとかわった称号が「鉄帽子王」
鉄帽子王というのは俗称で、正式な爵位名は他にありますけれど。世襲制の爵位を清朝では鉄帽子王といいます。
清朝には、親王、郡王、貝勒(ベイレ)、貝子(ベイセ)などの爵位があります。
皇族なら誰もが与えられるわけではありません。爵位のない皇族もいます。爵位は一代限りです。子に受け継ぐことはできません。そのかわりワンランク下の爵位が与えられます。
親王の跡継ぎは郡王。
郡王の跡継ぎは貝勒。
というぐあいに。
だから親王の子孫でも世代がかわるとどんどんランクが下がってしまいます。何か特別な実績を残さないと上の爵位はもらえないのです。
でも清朝には「鉄帽子王」という制度があります。
「鉄」は「失われない」
「帽子」は「爵位」を象徴する満州語を漢字に置き換えたもの。
鉄帽子王とは親の爵位を子が受け継ぐことができる制度です。
「親王」の跡継ぎは「親王」です。息子が何人かいた場合は家督を相続した人=「跡継ぎ」が親の爵位を名乗ることができます。
跡継ぎになれなかった子供は新しく爵位をもわわないといけません。もちろん何ももらえないこともあります。
つまり「鉄帽子王」は世襲制の爵位。
一般の爵位は一代限り。
跡継ぎはワンランク下の爵位に降格。
という違いがあります。
「鉄帽子王」の制度は後金から清に名前が変わった後に作られました。後金の時代にも爵位はありましたが、ホンタイジの時代に中華王朝の制度を参考に清朝独自の爵位の制度が作られました。
ホンタイジの時代に8家が作られ、清朝中期以降に4家が追加。
合計12家の鉄帽子王がいました。
清朝初期創設の鉄帽子王
清朝の初期には鉄帽子王は親王が6家、郡王が2家ありました。
清朝初期の建国に協力した人の子孫が多いです。
多羅郡王以外は清朝が続く間は存在して中華民国時代に廃止されました。
和碩親王
和碩禮親王
初代:ダイシャン(ヌルハチ次男)~ 15代:濬銘
中華民国になるまで続きました。正紅旗主
和碩睿親王
初代:ドルゴン(ヌルハチ14男)~13代:中銓
ドルゴンの子孫は順治帝の時代に爵位が降格になりましたが、乾隆帝の時代に親王に復活しています。その後は中華民国になるまで続きました。
和碩豫親王
初代:ドド(ヌルハチ15男)~14代:端鎮
ドドの子孫も、順治帝の時代に爵位が降格になりましたが、乾隆帝の時代に親王に復活しています。その後は中華民国になるまで続きました。
正藍旗主
和碩肅親王
初代:ホーゲ(豪格、ホンタイジ長男)~13代:憲章
中華民国になるまで続きました。
鑲白旗主
和碩荘親王
初代:シュルガチ(ヌルハチ同母弟)追尊。
2代:碩塞(ホンタイジ5男)承澤親王~13代:溥緒
最初に任命されたのは碩塞。そのときは承澤親王という称号でした。
その後、シュルガチが追尊され荘親王の称号に変わりました。
その後は中華民国まで続きます。
和碩鄭親王
初代:ジルガラン(シュルガチの6男)~18代:照煦
中華民国になるまで続きました。
鑲藍旗主
多羅郡王
多羅克勤郡王
初代:ヨト(岳托、ヌルハチ次男ダイシャンの長男)は最初は成親王に任命。生前に郡王に降格。
2代:羅洛渾~17代:晏森までは郡王
清朝末期1910年に断絶。
鑲紅旗主
多羅順承郡王
初代:勒克德渾(ルルハチの次男ダイシャンの三男・薩哈璘の次男)~16代:文葵
中華民国になるまで続きました。
中後期創設の鉄帽子王
雍正帝の時代以降に様々な理由で作られた鉄帽子王。
和碩怡親王
初代:胤祥(康熙帝13皇子)~毓麒
雍正帝時代に創設、中華民国になるまで続きました。
胤祥は雍正帝に最も協力した皇子。
和碩恭親王
道光帝時代に創設。
奕訢(道光帝6男)いったんは途絶えますが
清朝末期に溥偉~毓嶦が相続。
和碩醇親王
奕譞(道光帝6男)~載灃
咸豊帝時代に創設。
和碩慶親王
奕劻(乾隆帝17男永璘の6男綿性の長男)~載振
光緒帝時代に創設。
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