李氏朝鮮第14代国王・宣祖(ソンジョ)は 傍系出身という出自のコンプレックスを抱え士林派の分裂と派閥争いに苦しみました。豊臣秀吉の侵攻(壬辰戦争)という国難では派閥の意見に左右され適切な対応を怠たり。戦後も後継者問題で揺れながら波乱の生涯を終えました。この記事では宣祖の生涯をを解説します。
この記事でわかること
- 庶子の血筋から王となった宣祖の出自と、彼が生涯抱えたコンプレックス。
- 宣祖の治世で激化した士林(東人・西人)の派閥争いの始まりと「大同契事件」。
- 壬辰戦争(文禄・慶長の役)開戦前の宣祖の誤った判断、その背景にある派閥の対立。
- 宣祖を最後まで悩ませた光海君・永昌大君ら王位を巡る複雑な後継者問題。
宣祖(ソンジョ)の史実
宣祖の肖像画

朝鮮 14代国王 宣祖
プロフィール
- 名前:李昖(イ・ヨン)
- 称号:宣祖(ソンジョ)
- 王子時代の称号:河城君(ハソングン)
- 生年月日:1552年11月26日
- 没年月日:1608年3月16日
日本では戦国時代になります。
家族
- 父:徳興大院君(トグンデウォングン)
- 母:河東府大夫人鄭氏
- 妻:
- 懿仁王后朴氏
- 仁穆王后金氏
- 子供
- 臨海君、光海君、貞明公主、永昌大君ほか。
宣祖(ソンジョ)の家系図
宣祖の父は国王ではなく、中宗の側室の子(庶子)でした。宣祖は朝鮮史上初めて庶子の血筋から生まれた王です。
この出自は、身分差別が厳しかった当時の朝鮮において大きな「引け目」となり、宣祖の生涯にわたるコンプレックスとなります。

宣祖(ソンジョ)の家系図
宣祖(ソンジョ)の生涯
おいたち:傍流に生まれ明宗の養子になる
父は9代国王中宗の9男・徳興君(徳興大院君)。
1552年。徳興君の3男として産まれました。
李氏朝鮮史上初めて庶子の血筋から産まれた王でした。嫡子と庶子の身分差別が大きい朝鮮では、引け目を感じることになりました。宣祖は一生庶子の息子というコンプレックスを持ち続けたといいます。
1565年。13代明宗には跡継ぎがいなかったため、明宗の養子となりました。
国王即位も明がなかなか認めない
1667年6月。国王に即位。14代国王宣祖の誕生です。15歳でした。
ところが、当時宗主国だった明は宣祖の王位継承をなかなか認めず、当初は「朝鮮国權署国事」という国王の代理人としての立場でした。11月にようやく明から国王として認められます。
- 摂政:即位直後の1567年8月から1568年3月まで、明宗の王妃だった仁順大妃が摂政を行いました。
- 親政開始:16歳になった宣祖は、自ら政治を行うようになり、儒教を学んだ士林(士林派)を積極的に採用し、政治の刷新を試みました。
当初は政権が安定し、宣祖の目論見は成功したかに見えました。
士林の分裂と激化する派閥争い
平和な時期は長くは続きません。宣祖が登用した士林たちは、やがて東人(トイン)と西人(ソイン)の二派に分かれて争うようになります。 それぞれの本拠地が半島の東と西に分かれていたため、この名が付けられました。この分裂が後世まで続く激しい派閥争いの始まりとなります。
東人派(トイン派)
- リーダー:金孝元
- 傾向:朝鮮の東の地方出身者が中心となった派閥。
西人派(ソイン派)
- リーダー:沈義謙
- 傾向:朝鮮の西の地方出身者が中心となった派閥。
大同契(テドンゲ)事件(己丑獄事)
1589年(宣祖24年)、東人派であった鄭汝立(チョン・ヨリプ)は、西人派や宣祖の怒りを買って官職を辞職し、故郷へ戻ります。
鄭汝立はそこで弟子を集め、王の世襲を批判し、「社会は王や両班だけのものではない」と主張する大同契を結成しました。当時としてはかなり進んだ、しかし過激と受け取られがちな思想を訴えました。
大同契は武術訓練を行い、地元の要請で倭寇退治に成果をあげたことから組織が拡大しました。しかし、この活動が宣祖に報告されると、西人派は「謀反」だと主張します。宣祖も反乱組織だと考えて鎮圧を命令し、追い詰められた鄭汝立は自害しました。
その後、多くの人々が共犯者として処刑され、特に東人派に多くの犠牲者が出たことで、東人派と西人派の対立はさらに激化。この事件により西人派が勢力を拡大しました。
※この時期、1583年や1587年には朝鮮国内に住んでいた女真族の反乱も発生し、朝鮮は内憂外患の状態にありました。
対日外交と宣祖の判断ミス
豊臣秀吉からの要求
1587年、日本から使者がやってきました。その内容は「豊臣秀吉が日本を統一して新国王になった。祝賀する通信使を送るように」というものでした。
ここでいう「日本国王」は、天皇とは別の権力者を示すもので、歴代の武家リーダーが外国相手に名乗ることがありました。
使節を送ったのは対馬の大名・宗義智(そうよしとし)でした。宗家は朝鮮との外交を任されていました。実は秀吉は朝鮮国王が日本に来ることを要求していましたが、宗義智はそれは無理だと考え、朝鮮からの使節(通信使)の派遣を求めてきたのです。
宣祖の勘違いと重臣の進言
ところが宣祖は、「(秀吉は)国王を廃し王位を奪い取ったやつ」と言って相手にしようとしません。朝鮮半島では王が反乱で廃されることがよくあるため、日本も同じだと考えたようです。しかし、豊臣秀吉は織田信長を討ったわけではないため、宣祖は秀吉のことを勘違いしていました。
さらに重臣たちも「化外(未開・野蛮)の国を相手にすることはありません」と進言。結局、「海路が分からない」という理由で通信使の派遣を断りました。この返事を受け取った秀吉は激怒したといいます。
対馬から再度の使節と通信使派遣
1年後、今度は宗義智が自らやってきて通信使の派遣を求めてきました。宣祖は「先に誠意をみせろ」と数年前に起きた倭寇の問題を持ち出します。
宣祖は、対馬に逃げた朝鮮の賤民・沙乙背同(サウルベドン)の引き渡しを要求しました(賤民が倭寇を名乗ったり、倭寇に加わることはありました)。宗義智は対馬に戻り、沙乙背同とその仲間を捕らえて朝鮮に引き渡しました。
断る理由がなくなった宣祖は、日本に使節を派遣することを決定。1590年3月、朝鮮通信使が日本に向けて出発しました。しかし、その後、朝廷内部で再び派閥争いが起こります。
建儲問題(ゴンジョ問題)で東人派が分裂
1591年(宣祖24年)、この頃宣祖は既に40歳近くになっていましたが、まだ世子(セジャ:皇太子)が決まっていませんでした。
西人派の鄭澈(チョン・チョル)が左議政(チャイジョン:国政を司る重職)になり、光海君(クァンヘグン)を世子にしてはどうかと提案します。それを聞いた宣祖は激怒しました。宣祖は寵愛する仁嬪金氏(インビンきんし)の息子・信城君(シンソングン)を世子にしようと考えていたからです。激怒した宣祖により、鄭澈は流刑となりました。
この機会に東人派は西人派に復讐しようと考えますが、東人派内部で意見が分かれてしまいます。意見の対立から東人は北人(ブクイン)と南人(ナミン)に分裂してしまいました。
領議政(ヨンイジョン:最高の官職)の李山海(イ・サンヘ)と右議政(ウイジョン)の柳成龍(リュ・ソンリョン)が対立し、東人派全体を巻き込み、結局、東人派は次のように分裂しました。
北人派(ブクイン派)
- リーダー: 李山海
- 主張: 鄭澈を死罪にする。西人全体も処分すべきとする強硬派。
南人派(ナイン派)
- リーダー: 柳成龍
- 主張: 処分するのは鄭澈だけでよい。西人全体を処分する必要はないとする穏健派。
通信使の帰国と意見の対立
1591年8月、日本に行っていた通信使が朝鮮に戻ってきました。通信使は秀吉が明の征服を考えていること、そして朝鮮に日本軍の道案内をするよう求めていることを聞かされていました。
ところが、日本から帰ってきた使節の意見が真っ二つに分かれてしまいます。
- 西人派・黄允吉(ファン・ユンギル)の主張: 「日本は多くの兵船を用意しており、近々戦争があるかもしれない」
- 東人派・金誠一(キム・ソンイル)の主張: 「秀吉は無知な人でそれほど大きなことを手がけそうな人物ではなく、下手に迎え撃つ準備をすると民心を動揺させるだけだ」
もともと対立していた西人派と東人派は、使節の報告を聞いてさらに激しく対立。国の将来がかかる問題にもかかわらず、お決まりの派閥争いの材料にしてしまいました。
宣祖の判断ミスが招いた結果
結局、宣祖は東人派の意見に賛成し、「日本が朝鮮に攻めてくるのはあり得ない」という結論になりました。
それどころか、それまで行っていた軍隊の訓練と城壁の補修もやめてしまいました。6月にも日本から使節が来て返答を求められましたが無視しました。これ以降、釜山に滞在していた日本人は帰国し、朝鮮側でも不安に思う人が出てきました。
1592年、日本から最後通告の使節が来ましたが、宣祖はいいかげんな返事をして使節を帰しました。この期におよんでも宣祖は本当に戦争になるとは思っていませんでした。
壬辰戦争(文禄の役)の始まり
1592年4月12日、対馬に集まっていた日本軍は海を渡りました。いわゆる朝鮮出兵(文禄の役)の始まりです。
豊臣秀吉の野望は止められないにしても、宣祖は国を守るために行動を起こすべきでした。朝鮮はなんの準備もしないまま戦国武将を相手にすることになります。
壬辰丁酉戦争での宣祖の活動については 宣祖と壬辰・丁酉戦争(文禄・慶長の役)。国王としてはたした役割とはで詳しく初会しています。
歴史を客観的に伝えるための呼称
当時、朝鮮ではこの戦いを「壬辰倭乱」と呼びました。しかしこの「倭」という文字は当時の日本に対する差別的・軽蔑的な意味合いを持つため、現代の歴史学界ではより客観的な呼称が推奨されています。
現在最も中立的で客観的として日韓中共同研究でも提唱されている呼称*)は「壬辰戦争」です。これは「乱」(混乱や反乱)ではなく「戦争」という実態を表す言葉を用いるためです。
本記事でもその提唱に基づいて客観的な呼称として「壬辰戦争」を採用しています。
【出典・参考文献】
*) 鄭杜熙・李璟珣 著、金文子・小幡倫裕 訳『壬辰戦争 : 16世紀日・朝・中の国際戦争』明石書店、2008年
戦争後の宣祖の治世と後継者問題
荒廃からの復興への努力と再燃する派閥政治
戦後の朝鮮は広い範囲にわたって甚大な被害を被っていました。宣祖は民衆の生活を安定させ、荒れ果てた農地を再建するため、戸籍の再編や税制の見直しなどを試みます。
また、戦時中は一時的に収まっていた派閥争いは、戦争が終結に向かうにつれて再び激しさを増しました。特に光海君を支持する勢力と、新たな後継者を望む勢力の間で対立が深まります。
王位を巡る争い:宣祖を悩ませた後継者問題の全貌
壬辰戦争後の宣祖の治世で最も大きな課題になったのは後継者問題です。宣祖には多くの息子がいましたが、正室との間に子がなかなか生まれなかったため、後継者選びは複雑でした。
光海君(庶子)
壬辰戦争中に宣祖に代わって分朝(ぶぶんちょう:国王の代理としての地方政権)を率い、民衆から信頼を得ていました。彼の戦時中の功績は大きく、多くの臣下が彼を世子とすることを望んでいました。しかし、光海君は側室の子であり、明からも支持が得られなかったため、宣祖は彼を正式な世子とすることに躊躇していました。
信城君(庶子)
宣祖が寵愛した仁嬪金氏の息子で、宣祖は彼を世子にしようと考えていましたが、壬辰戦争中に病死してしまいます。
永昌大君(嫡子)
壬辰戦争終結後、新しく正室になった仁穆王后(インモクおうごう)との間に生まれた嫡子です。宣祖は庶子出身である自身の劣等感から、嫡子の永昌大君に王位を継がせたいと願うようになります。
宣祖が光海君から永昌大君へ世子を変更しようとしたことで、朝廷内の派閥争いはさらに激化しました。光海君を支持する大北派と、永昌大君を支持する小北派が対立し、国王の権威は不安定化します。
宣祖自身も後継者問題を巡る心労から健康を害したと言われます。
宣祖の最期と死因
宣祖は1608年3月に56歳で死去しました。死因は正確には記されていませんが、これまでの政治的な心労と晩年に抱えていた健康問題を考えると、脳卒中のような急性の病が原因だった可能性が高いと言われています。
彼の晩年は、壬辰戦争後の国土の荒廃、民衆の不満、そして何よりも国王としての正統性への執着から生まれた後継者問題に苦しみました。
特に戦乱で功績を挙げ、民衆からの信頼も厚かった光海君を世子とすることには抵抗があり、庶子出身という自身のコンプレックスが邪魔をして、最後まで踏み切れませんでした。
宣祖が登場する主なテレビドラマ
- 宮廷女官キム尚宮 KBS 1995年 演:キム・ソンオク
- 許浚(ホ・ジュン) MBC 1999年 演:パク・チャンファン
- 王の女 SBS 2003年 演:イム・ドンジン
- 不滅の李舜臣 KBS 2004年 演:チョ・ミンギ
- 許浚・伝説の心医 MBC 2013年 演:チョン・ノミン
- 火の女神ジョンイ MBC 2013年 演:チョン・ボソク
- 王の顔 KBS 2014年 演:イ・ソンジェ
- 懲毖録 KBS 2015年 演:キム・テウ、ベク・スンファン
- 華政(ファジョン) MBC 2015年 演:パク・ヨンギュ
- 魔女宝鑑 JTBC 2016年 演:イ・ジフン
- 壬辰戦争1592 KBS 2016年 演:キム・グァンヨウン
- 名不虚伝 tvN 2017年 演:チョ・スンヨン
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