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ソドンヨのモデル・百済 武王(ムワン)の実話と家系図

百済 武王 2 百済
百済 武王

出典:ソドンヨ DVD(楽天)

 

韓国時代劇「薯童謡(ソドンヨ)」の主人公・チャンは百済の王・武王がモデルです。

伝説では新羅の王女・善花(ソンファ)姫と結婚したといわれますが、創作の部分が多いと言われます。

本当の武王はどんなひとだったのでしょうか。歴史上の百済の王としての武王について紹介します。

 

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百済 武王(ムワン)の史実

どんな人?

名前:扶餘璋(プヨ・チャン、ふよ しょう)
称号:武王(ムワン、ぶおう)、武康
幼名:薯童(ソドン)、一耆篩徳

生年:?
没年:641年

在位:600~641年

彼が生きたのは6世紀末から7世紀頃。百済の30代国王です。

同時代の人物

(内)は在位年。

高句麗:嬰陽王(590-618)、栄留王(618-642)
新羅:真平王(579-632)、善徳女王(632-647)

隋:文帝(581-604)、煬帝(604-618)
唐:高祖(618-626)、太宗(626-649)

日本:推古天皇(593-628)、舒明天皇(629-641)

 

百済 武王の家族

父:法王あるいは威徳王
妻:沙宅王妃、善花公主?
子供:義慈王、翹岐

 

百済 武王の家系図

朝鮮半島の歴史書「三国史記」を中心に「日本書紀」に書かれた内容で補足すると武王の家系図はこのようになります。

百済王家家系図

百済王家家系図

 

しかし中国の歴史書「北史」では「威徳王の子」とも書かれています。ドラマ「ソドンヨ」では「北史」の説を採用しているようです。

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百済 武王の生涯

おいたちには諸説あり

武王の生い立ちには諸説あります。

29代法王の息子という説と、27代威徳王の息子という説がありまます。

また、百済の王族・辰爾王(夫餘寬)が父親だという説もありますが。日本の守護大名・大内氏がでっちあげたものなので信憑性はありません。

ドラマの「ソドンヨ」では威徳王の息子説を採用しています。

新羅王に即位

600年。法王の死後。即位しました。

伽耶諸国の支配を巡って新羅とは険悪な関係が続きました。

602年。新羅の阿莫山城(アマクサン城)を攻撃しましたが、新羅の真平王が送った騎馬隊と戦って敗退。

日本に僧侶の観勒(カンロク)を派遣。仏教、天文、暦本、陰陽道を伝えました。仏教だけでなく陰陽道もまとまった形で日本に伝わりました。

610年。椵岑城(ガジャム城)を占領しました。
武王の時代、百済と高句麗の関係はよくありませんでした。高句麗が百済に攻めてこないように、隋に朝貢して協力を求めました。その隋に圧力をうけた高句麗は百済に攻めて来られないようになりました。

611年に隋が高句麗が高句麗を攻めることを知ると、武王も戦いに参加すると隋に報告しました。

その一方で、高句麗にも使者を送って同盟を結ぼうとしました。

結局、隋の高句麗攻撃には参加しませんでした。高句麗との戦いに兵を出してしまうと新羅に攻め込まれる不安があったからです。

616年。母山城(ボウサン城)を攻撃しました。
618年には椵岑城を奪い返されますが、その後も戦いは続きました。

621年。隋が滅びて唐が建国されると、唐に朝貢しました。

623年。勒弩縣を攻撃。

624年。唐から、「帯方郡王・百済王」の称号をもらいました。

625年。高句麗都の和睦が成立。

新羅攻撃に専念できるようになりました。すると新羅の真平王は唐に使者を送って仲裁を求めました。しかし武王も使者を送り一旦は出兵を中止しました。しかし新羅との戦いはやめませんでした。

630年。長年の戦で荒れていた泗沘城(サビ城・王宮)を修復しようとしました。ところが干ばつがおきたので中止しました。

益山遷都を行い貴族勢力を再編成しようとしました。結果的には遷都は実現しませんでしたが、聖王の時代に衰退した百済の力は武王の時代になって復活しました。

百済といえば日本に仏教を伝えたことでもわかるように仏教の盛んな国でした。先代の法王が作り始めた王興寺を634年に完成させ、弥勒寺も建てました。

641年3月。死去。在位期間は41年にもなりました。武王の死を聞いた唐の太宗は号泣して、光禄大夫の称号を贈ったといいます。

武王には二人の王妃がいた?

2009年。弥勒寺の解体修理中に舎利箱に「我らの王妃は沙宅積德(サテクチョクドク・百済の貴族)の娘・・・」と書かれていることが発見されました。それまで弥勒寺は善花王妃が中心となって作ったと言われていましたが、沙宅王妃が作ったことがわかりました。

つまり、弥勒寺を作ったときには善花王妃が既にいなかったか。善花王妃と沙宅王妃の二人の王妃がいたことになります。李氏朝鮮王朝と違って、百済は王妃は二人いることもあったようなので、善花王妃と沙宅王妃の二人がいてもおかしくはありません。

「ケベク」では善花王妃が亡くなったあとに沙宅王妃が来たことになっています。

 

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日本と同盟していた武王

武王と倭国:朝鮮半島における同盟の複雑な歴史

武王の時代、朝鮮半島では複数の国が覇権を争っており、その中で百済は倭国と同盟関係を強化しました。 現代では信じられないかもしれませんが、当時の国際情勢は非常に流動的。国同士の同盟関係は頻繁に変化しました。

なぜ同盟を結んだのか?

その理由は生き残りをかけた戦略です。朝鮮半島は常に激しい戦いの場でした。隣国との戦いを有利に進めるために、半島外の勢力と手を結ぶ必要があったのです。

倭国と朝鮮半島

推古天皇以前の倭国は、朝鮮半島に深く関わっていました。百済、新羅、伽耶諸国と状況に応じて同盟を結んだり対立したりと、複雑な関係を築いていました。

「倭」と「和」

ここで気になるのは「倭」という言葉です。日本国内では「ヤマト」と発音されていましたが、大陸や半島の人々は現地の言葉で発音していました。日本人が自分たちを「ワコク」と呼んでいたわけではありません。

そういう意味では現代の学者が古代日本のヤマトを中心とした勢力を倭国(ワコク)と呼ぶのは間違いなのです。

また奈良時代に「倭」の字を「和」に変えたので「大和」を「ヤマト」と呼ぶようになりました。「大」の字をつけたのは、縁起の良い二文字で国名を表すことを好んだためと考えられています。

 

まとめ:百済武王の多岐にわたる影響

百済の武王は百済を再興し仏教や文化を日本に伝えた偉大な王でした。新羅との激しい戦いを繰り広げながらも、隋や唐との外交関係を築き、百済の勢力を拡大しました。

衰退していた百済がかつての勢いを取り戻した輝かしい時代と言えるでしょう。

近年の考古学的な成果によって武王の生い立ちや王妃についても新しい発見がありました。日本との深い関係も見逃せません。

武王は百済の歴史において政治、外交、文化など多くの影響を与えていると言えます。

 

テレビドラマの武王

2005年 SBS 薯童謡(ソドンヨ) 演:チョ・ヒョンジェ
2011年 MBC 階伯(ケベク) 演:チェ・ジョンファン

 

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