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楊貴妃(楊玉環)玄宗皇帝に略奪愛をさせた美女の生涯とは 

唐朝 5.2 隋唐の皇后・側室

楊貴妃は中国史上でも一番有名な女性でしょう。

本名は 楊玉環(よう・ぎょくかん)

日本にも楊貴妃の噂は伝わり、絶世の美人と言われます。

玄宗の妃として知られますが。最初は玄宗の息子・李瑁の妻でした。あまりにもの美しさに玄宗は息子から妻を奪ったのでした。

楊貴妃は美人なだけの女性ではありませんでした。頭がよくて気が利く、踊り、音楽などの才能に優れた女性だったようです。玄宗を虜にする話術も身につけていたのでしょう。

史実の楊貴妃はどんな人物だったのか紹介します。

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楊貴妃の史実

いつの時代の人?

生年月日: 開元7年6月1日(719年6月22日)
没年月日: 至徳元載6月14日(756年7月15日)
享年:38

姓:楊(よう)
名:玉環(ぎょくかん)、玉?
道号:太真
称号:貴妃
父:楊玄琰(よう・げんえん)
母:李氏
夫:
寿王・李瑁
玄宗・李隆基

子供:なし

彼女は唐の9代皇帝・玄宗の側室

日本では奈良時代になります。

楊貴妃の名前

正式な歴史書には楊貴妃の本名は書かれていません。

死後、100年後に書かれた「明帝雑録」に名前は玉環(ぎょくかん)とあります。この名前が現代まで伝っています。

玉環は玉(貴石)で作ったリング状の飾りのことです。腰に吊るして使います。
古来中国では美しい「玉」は女性の名前によく使われました。

他にも、玉奴、玉娘などの呼び方があったようです。

玉環は宮廷に入ってからの名前で、それまでは「玉」とよばれていたのではないか。ともいわれます。

おいたち

719年6月22日(開元7年6月1日)、蜀州(四川省)で生まれました。

父は蜀州司戸の楊玄琰。町役場の役人みたいなものです。

姉には韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人がいました。

幼い頃に両親を失い、叔父の楊玄璬(よう・げんきょう)の家で育てられました。
玄璬も地方の役人です。

寿王 李瑁の妃になる

735年(開元23年)。玉環は女官になりました。
配属先は 寿王 李瑁(り・ぼう)の屋敷です。
李瑁は玄宗と武恵妃の息子。玄宗の十八男です。

楊玉環が寿王李瑁のもとに来たいきさつはよくわかりません。地方で評判の美人は都の王族に召し出させるのはいつの時代でも行われていました。

もともと地方役人の娘だった玉環の評判が地方の有力者の耳に入り、都の玄宗のもとに届いたのでしょう。李瑁は美しい玉環がよほど気に入ったようで、玉環を正妻にしました。
地方役人の娘から都で寿王妃になりました。

このころ宮中では跡継ぎ問題で混乱していました。

寿王 李瑁は当時23歳。玄宗の寵愛を集める武恵妃と宰相の李林甫が協力して李瑁を皇太子にしようとしていました。

ところが737年(開元25年)武恵妃が死去。有力な後ろ盾を失った李瑁は皇太子にはなれませんでした。

皇太子になったのは李璵(粛宗)でした。

夫の父・玄宗の愛人になる

740年(開元28年)。10月。楊玉環は西安郊外の離宮の温泉宮によばれました。
寵愛していた武恵妃の死後、ひどく落胆していた玄宗は楊玉環を気に入りました。そして自分の側室にしようと思ったのです。

ところがさすがに息子から妻を奪うのは気がひけたようで。
玄宗は楊玉環を道士(道教の神官・呪術者)にさせました。道号は太真。

道教の世界に入って世俗とは縁が切れたので息子の嫁ではなくなった。
それなら自分の女にしてもいい。という理屈です。

唐の時代は後の儒教で凝り固まった中華王朝と比べると男女の関係はおおらかです。それにしても実の息子の妻を奪うのは異常です。

玄宗本人もさすがに抵抗があったようです。だからいったん道教の世界にいれてから側室にしました。

でも李璵は納得できなかったでしょう。
いくら皇子でも皇帝の命令には逆らえません。
李璵は皇太子になれなかっただけでなく妻も失いました。

楊玉環は都に来て朝廷が持つ道教の施設「太真宮」で暮らしました。表向きは道士ですが、実際には玄宗の愛人になっていたようです。

楊貴妃誕生

745年(天宝4載)。楊玉環は貴妃になりました。

このとき楊貴妃は22歳。玄宗は56歳でした。

玄宗が楊玉環を貴妃に任命する1ヶ月前。
元夫・李瑁は 韋昭訓の娘と結婚させました。このとき李瑁がどう思ったかは謎です。

贅沢になる姉と従兄弟たち

中国・朝鮮社会では一族の誰かが出世すると、便乗して出世したりいい生活をしようと群がる親族が出てきます。

楊貴妃の一族も例外ではありません。

すでに他界している父の楊玄琰は兵部尚書。母の李氏は涼国夫人に追贈されました。
養父で叔父の楊玄珪は光禄卿。
従兄の楊銛(楊玄珪の子)は殿中少監、従兄の楊錡(楊玄珪の子)は駙馬都尉に任命されました。さらに楊錡は玄宗の娘・太華公主と結婚しました。

748年(天宝7載)。楊貴妃は3人の姉を呼び寄せました。姉たちには韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人の称号が与えられました。

楊貴妃の影響力のおかげで、楊銛・楊錡と韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人は宮廷内で大きな発言力を持ちました。

親戚の楊釗(国忠)も都にやってきて官職にありつきました。楊釗(国忠)は玄宗や宰相の李林甫に気に入られ出世。李林甫の死後は宰相になります。

楊貴妃の親族のもとには、なんとか取り入ろうと賄賂を持ってくるものが大勢いました。中国・朝鮮はコネ社会なので、出世しようと思えば有力者に取り入るのが一番早いのです。

楊一族はまるで皇帝一族のような扱いをうけました。

玄宗とケンカ?

玄宗の寵愛を受けた楊貴妃ですが2度喧嘩したことがあります。

「旧唐書」という歴史書によると。

746年(天宝5載)7月。貴妃になって翌年。楊貴妃は嫉妬心から妬みごとを玄宗に言いました。朝、怒った玄宗は側近の高力士に命令して楊銛の屋敷に戻されてしまいます。

ところが昼になっても玄宗は機嫌がよくありません。側近を鞭で打ったり罰したりしています。「皇帝は楊貴妃を罰したのを後悔している」と考えた高力士が楊貴妃を許すように進言すると玄宗は即OK。誰かが進言してくれるのを待っていたのです。その日のうちに楊貴妃は玄宗のもとに戻されました。

750年(天宝9載)。楊貴妃はまた玄宗を怒らせせました。

「旧唐書」には詳しい理由は書いてませんが。「長恨歌伝」によると。楊貴妃が玄宗の兄・寧王の笛を勝手に持ち出して演奏しました。玄宗は激怒しました。

まずいと思った楊国忠が代わりに謝罪。楊貴妃も「わが罪は万死に値する」と髪一束を切って玄宗に届けさせました。玄宗は楊貴妃を許し、以前よりも仲良くなりました。

どちらも一時的に玄宗が怒るものの、結局は楊貴妃を許してそれまで以上に仲良くなります。ノロケ話のようです。

安碌山を養子にする?

楊貴妃と言えば、安碌山を気に入り養子にしたことで有名です。

安碌山はソグド人(ペルシャ系の民族)の武将。人に取り入るのが上手く玄宗からも気に入られていました。安碌山は見た目は太った大男でしたが、口が上手く人を喜ばせるのが上手でした。

宮中に人脈を作りたいと思っていた安碌山は玄宗の寵愛を集める楊貴妃に注目。さかんに贈り物をして楊貴妃と仲良くなりました。

746年(天宝5載)。安碌山は子供のいなかった楊貴妃の養子になりたいと行って。玄宗と楊貴妃も認めました。安碌山の方が楊貴妃よりも年上ですが、地位の上下が大事なので年齢は関係ありません。

楊貴妃の養子になった安碌山が玄宗よりも先に楊貴妃に挨拶しました。

玄宗がそれを注意すると安碌山は「私は蕃人です。蕃人は母を先に父は後にするのです」と言いました。父より母を大切にするのは異国の習慣だというのです。

751年(天宝10載)には、楊貴妃の子供のふりをして遊んだともいいます。

安碌山と対立する楊国忠

安碌山が楊貴妃と親しくなるのにつれて、朝廷内では安碌山への反発が強くなりました。軍事力と経済力をもつ安碌山は朝廷内の重臣にとっては「反乱を起こすんじゃないか?」と不安で仕方なかったのです。

安碌山と最も激しく対立したのが楊貴妃の親類の楊国忠でした。かれもまた楊貴妃のコネで玄宗に取り入った人物です。

楊貴妃は朝廷内で対立している2人の重臣と深い関わりを持っています。微妙な立場に立たされてしまいます。

安碌山を陥れようと、楊国忠が都に呼び出そうとしたことがありました。このときは楊貴妃が楊国忠の企みを知って安碌山に知らせたこともありました。

楊貴妃はかなり安碌山を気に入っていたようです。

でも安碌山と楊国忠たち朝廷の重臣たちとの対立は続きます。

安碌山は宰相になりたと希望。玄宗も認めましたが。楊国忠の反対で実現しません。逆に宰相になったのが楊国忠でした。

楊国忠たちは玄宗に何度も「安碌山が謀反をたくらんでいる」と報告。安碌山と楊国忠の対立はいつものこと。玄宗にしてみれば「またか」という思いだったので楊国忠の言葉は信じません。

でも安碌山の反乱は嘘ではすまなくなりました。

安碌山の反乱

755年(天宝14載)。安碌山は挙兵しました。
このとき安碌山は「楊国忠の成敗」を反乱の大義名分にしました。

最初、玄宗は安碌山が反乱したという報告を信じませんでした。楊貴妃もそうだったでしょう。でも反乱は事実でした。

あっという間に洛陽が陥落しました。すでに唐の軍隊は腐敗していてまともに戦える軍は少なかったのです。

756年(天宝15載)。潼関の戦いで唐軍が敗退。ここを破られれば長安はすぐです。

長安脱出

楊国忠は玄宗と相談して長安を脱出、蜀に落ち延びることを決定。蜀は楊一族の故郷です。

長安脱出作戦は密かに進められました、発表すると臣下たちに反対されて脱出が遅れるかもしれないからです。

玄宗と楊国忠は、楊貴妃、韓国夫人、虢国夫人、皇太子、皇子、公主、皇帝の孫、主な妃たちをつれて脱出しました。(秦国夫人はすでに他界)

玄宗たちは夜中に西門から出ました。

このとき、宮殿の外にいた妃・公主・皇孫は見捨てられました。

広平王の妃・沈氏も見捨てられた。と考えるのが妥当です。

楊貴妃の最期

夜が明けて馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)のあたりまで来たとき。護衛の兵士たちが騒ぎ出しました。

反乱軍は「楊国忠の成敗」を主張しているんだから、楊国忠を処罰すべき。というのです。かといって玄宗もそう簡単に楊国忠を処刑はできません。

ところが吐蕃(チベット)の使者が食料がないと楊国忠に訴えていると、兵たちが「楊国忠が異人と謀反の相談をしているぞ」と兵たちが騒ぎ出し、楊国忠は兵たちに囲まれて殺害されました。続いて、韓国夫人、がまず殺害されました。

兵たちは楊貴妃が「諸悪の根源」と処刑を要求。

玄宗は「楊貴妃は後宮にいたので楊国忠とは関係ない」と助けようとしました。

側近の高力士たちに説得され、玄宗は仕方なく楊貴妃の処刑を決定しました。

楊貴妃が死亡した場面はいくつか説があります。

有名なのは、楊貴妃は白い布を渡され、仏堂に生えている梨の木で首をつったとという説。

「旧唐書」では。仏堂で首を吊りました。

別の節では、高力士に連れられて仏堂に行き縄で首をしめられて死んだ。

とも言います。

いずれにしろ楊貴妃は処刑されました。

虢国夫人は楊貴妃たちより先に進んでいたこのときは無事でしたが。あとで兵に捕まって殺害されました。

安史の乱が終わり、玄宗は楊貴妃の遺体を探させましたが見つかりませんでした。

 

ドラマ の楊貴妃

麗王別姫 2016年、中国 演:曽黎
快遞先生與貴妃小姐 2017年、中国 演:湯晶媚
武大的小姐姐們 2018年、中国 演:方妍心 
長安二十四時 2019年、中国 演:徐璐 役名:巌羽幻

映画
空海 2017年、日中合作 演:張榕容

 

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