平原王(へいげんおう)高陽成(こう・ようせい)は高句麗の25代国王。
三国史記に書かれた「平岡公主と温達将軍」のエピソードにも出てくる王です。
高句麗末期に王になった平原王ですが。この時代、国内では争いがおこり国王の権威もおちていました。国外では力を付けてきた新羅や中国王朝に挟まれて苦しい時代でした。
でも新羅は百済とも戦っていました。中国南北朝もお互いに戦っていました。24代陽原王、26代嬰陽王の時代に比べれば比較的大きな戦闘が少ない時代でした。
平原王は活発な外交を行い、高句麗を少しでも有利な立場にしようとしました。
史実の平原王はどんな人物だったのか紹介します。
平原王の史実
どんな人?
姓 :高(こう)
名称:陽成(ようせい)
「三国遺事」では 陽城、「隋書」では「湯」
国:高句麗
地位:高句麗王
称号:平原王(へいげんおう、ピョンウォンワン)、平崗上好王
生年月日:532年?
没年月日:590年
在位:559年~590
家族
彼は高句麗の25代国王です
同時代の王は
百済・威徳王(在位554~598年)
新羅・真興王(540~576)、真智王(576-579)、真平王(579-632)
日本では欽明天皇(539~571年)、敏達天皇(572~585年)、用明天皇(585~587年)、崇峻天皇(587~592年)。
推古天皇や聖徳太子が活躍する直前の時代です。
平原王の家系図
平原王の生涯
おいたち
本名は 高陽成(こう・ようせい)
生年は不明。一節には539年生まれ。
父は陽原王。母は不明。
陽成は陽原王の長男。
陽成は勇敢で馬術や弓術が得意だったといいます。
陽原王の時代は力をつけてきた新羅や新羅と同盟した百済との戦争が多く。領土を失うことの多い時代でした。
551年。新羅と百済の連合軍に漢城付近を奪われました。
553年。新羅が百済の漢城を占領。
高句麗の南側で国境を接する国が新羅だけになります。
新羅と百済の同盟が崩壊。新羅と百済が激しく対立するようになり、朝鮮半島では三つ巴の状態になりました。
557年。陽成が太子になりました。
この年。丸都城(吉林省集安市)で城主の干朱理が反乱を起こしました。反乱は鎮圧されましたが。高句麗王の権威は衰えていました。
高句麗王に即位
559年。父の陽原王が死去。
陽成が高句麗王に即位しました。
活発な外交作戦
平原王は即位間もないころから中華王朝に積極的に朝貢使節を送りました。
560年。中国北朝の北斉に使者を送り「使持節・領護東夷校尉、遼東郡公、高麗王」の称号を得ました。
562年。中国南朝の陳に使者を送り文帝から「寧東将軍」の称号を得ました。
高句麗は伝統的に北朝との繋がりが強く、特に戦乱がない限りは毎年のように朝貢しなければいけません。
でも地理的に遠い南朝に朝貢使節を送ったのは、力をつけてきて新羅に対抗する意味もあります。
平原王は南朝の陳にも朝貢使者を派遣しました。漢城周辺を占領した新羅は黄海に出る港を確保しました。そこで新羅は独自に中国王朝に朝貢を始めたのです。
朝鮮半島の国々とって中国王朝とのつながりをどれだけ持つか、というのは大事な問題でした。そこで高句麗としてもしばらく途絶えていた南朝への朝貢を再開しました。
南朝に使節を送ると、国境を接している北朝との関係が悪くなる可能性があるので危険なのですが。それだけ新羅の動きが無視できなくなったのでしょう。
565年。王子・元(後の嬰陽王)を太子にしました。
日本に使節を派遣
570年と573年には。倭(日本)に使節を派遣しました。
新羅との戦いを少しでも有利にするため平原王は新羅に恨みを持っていると思われる倭(日本)に目をつけました。倭はかつて朝鮮半島南部の利権を巡って新羅と争っていたからです。倭を味方にすれば北と南から新羅を挟み撃ちにできます。
「敵の敵は味方」の理屈です。この考え方は中国・朝鮮半島の国々の歴史をみるときにとても重要です。過去の遺恨よりも今生き残ることが大切だからです。
高句麗の使者は日本海を横断して越(こし)の国(北陸)に到着しました。このとき高句麗の使者が持ってきた高句麗王の国書は東(やまと)と西(かわち)の史人(ふびと=漢字を使って記録をする役人、主に古墳時代に日本に来た人達の子孫)には読めませんでした。でも彼らより新しい時代に日本に来た王辰爾は読むことができました。
高句麗王の国書はカラスの羽に書いていたので誰も読めませんでした。王辰爾(おうじんに)は羽を蒸して絹布に押し当てて字を写し取り読むことができました。
573年にも高句麗から倭に使節が来ました。
でも高句麗の使節はあまり歓迎されませんでした。おそらく当時の日本は百済との関係を重視していたこと。高句麗の立場を理解していなかったなどの理由でしょう。
倭はあてにならないと思った平原王は倭への使節派遣を止めました。
この後、高句麗から日本に使節が来るのは隋が建国して高句麗がますます危なくなった時期になります。
中国南朝の圧力が強まる
577年。北周の武帝・宇文邕が北斉を滅ぼし華北を統一しました。
平原王はさっそく北周に使者を送り、武帝・宇文邕から「開府儀同三司大將軍、遼東郡開國公、遼東王」の称号が与えられました。
時期は不明ですが。北周軍が高句麗に攻めてきました。温達の活躍で北周軍を退けました。
581年。文帝・楊堅が隋を建国。
このときも平原王は隋に使者を送り高麗王(高句麗王)の称号を得ました。
584年まで毎年、隋に朝貢しています。
586年。先代から建築していた長安城が完成。平壌城から長安城(現在の北朝鮮平壤市内)に遷都しました。
589年。隋が陳を滅亡させて中国大陸を統一。
すると平原王は隋が高句麗を攻撃するのではないかと恐れて軍事力を強化しました。
高句麗の動きを知った隋の文帝は高句麗を批判して攻めようとしました。平原王はお詫びの使者を送ろうとしました。
590年。平原王は隋に使節を送る前に死亡しました。
息子の元が国王(嬰陽王)になりました。
テレビドラマの平原王
王女ピョンガン 2021年、KBS 演:キム・ボムレ 役名:ピョンウォン王
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