韓国時代劇「オクニョ・運命の女」では、大尹派、小尹派という言葉がよく出てきます。
大尹派も小尹派も派閥なのです。でも、韓国時代劇でおなじみの南人派、西人派とはちょっと違います。一族のまとまりで分けられた派閥なんです。
大尹派、小尹派とはどんな派閥でどんな対立があったのか紹介します。
大尹(テユン)派とは
中宗の2番めの妃・章敬王后尹氏の実家の一族と支持者を大尹といいます。
章敬王后尹氏の息子・李峼(イ・フィ:後の仁宗)を王にしようとしました。
章敬王后は仁宗を産んだ後、すぐに死亡しました。彼女自身は大尹派と小尹派の争いには関わっていません。
大尹の主な人々
尹汝弼(ユン・ヨピル)
章敬王后、ユン・イムの父。仁宗の母方の祖父。
尹任(ユン・イム)
章敬王后の兄、仁宗の叔父になります。
中宗反正に参加、燕山君を倒し中宗の即位に協力しました。
乙巳士禍で処刑されました。
柳灌(リュ・グァン)
中宗に仕え、仁宗のとき左議政を勤めました。
乙巳士禍で処刑されました。
柳仁淑(ユ・イスク)
中宗に仕えました。大司憲などを勤めました。
乙巳士禍で処刑されました。
小尹(ソユン)派とは
中宗の3番めの妃・文定王后尹氏の実家の一族と支持者を小尹といいます。
文定王后の息子・慶原大君(明宗)を王にしようとしました。
小尹の主な人々
尹之任(ユン・ジイム)
文定王后、ユン・ウォニョン兄弟の父。明宗の母方の祖父。
尹元衡(ユン・ウォニョン)
文定王后の弟。鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)の夫。
文定王后の死後、失脚。処刑される前に自害しました。
尹元老(ユン・ウォンロ)
文定王后の弟・ウォニョンの兄。乙巳士禍のあと、弟のウォニョンと対立して処刑されました。
尹春年(ユン・チョンニョン)
ユン・ウォニョンの親戚。ウォニョンの側近として大尹派やウォンロの排除に協力。ウォニョンが失脚すると解雇され、郷里で隠居生活を送りました。
李芑(イ・ギ)
中宗に仕えてたが、ユン・イムとは対立していました。
明宗時代には領議政を勤めました。
乙巳士禍に参加。イ・オンジョクと親しかったのでオンジョクとの対立は避け、他の大尹派を攻撃しました。明宗7年に病気で死亡しました。
大尹派と小尹派の対立の歴史
大尹派と小尹派の争いは11代国王・中宗の晩年から始まりました。
最初は大尹も小尹もなく、同じ尹一族として協力していました。
1515年(中宗10年)。章敬王后尹氏が王子(イ・ホ)を出産。後の仁宗です。章敬王后は出産後すぐになくなってしまいます。
章敬王后の兄ユン・イムは同じ尹一族から次の王妃を選びました。それが文定王后尹氏です。
王妃になった文定王后はイ・ホの母となり育てました。
1520年(中宗15年)。イ・ホは世子になりました。文定王后もイ・ホが世子になることに賛成しました。
1534年(中宗29年)。文定王后が王子(イ・ファン)を産みました。後の明宗です。
イ・ファンの誕生が争いの始まりでした。既に章敬王后の産んだ王子が世子になっていましたが、世子は病弱でした。
文定王后は自分の息子を王にしたいと考えました。兄弟のユン・ウォニョン達も同じ考えでした。
世子を守ろうとするユン・イムと、文定王后の息子(明宗)を王にしようとするユン・ウォニョンたちの争いが始まります。
ユン・イムは当時力を持っていた重臣の金安老(キム・アンロ)と手を組みました。
ユン・イムはユン・ウォニョン達が仁宗を傷つけようとすると訴えます。
ユン・ウォニョン達もユン・イム達が明宗を傷つけようとしていると訴え争いが起こります。
中宗が仲裁していったんは収まりまったように思えましたが、相簡単には収まりませんでした。
1544年(仁宗即位年)。仁宗が即位すると、ユン・イムたちが権力を得ました。
ユン・イムはユン・ウォンロ、ユン・ウォニョンを追放しました。
柳灌(リュ・グァン)、柳仁淑(リュ・イスク)たちユン・イムに
仁宗の教育係だった李彦迪(イ・オンジョク)がたち士林派も政治に参加しました。
1545年(明宗即位年)。明宗が即位すると大尹と小尹の立場が逆転します。
乙巳士禍
1545年。ユン・ウォニョン達小尹派は、ユン・イム、柳灌(リュ・グァン)、柳仁淑(リュ・イスク)ら大尹派に謀反の疑いをかけ処刑しました。
鳳城君や桂林君も謀反の疑いで処刑されました。
大尹派への追求は6年にわたって行われました。この事件で大尹派はほぼ壊滅します。
この事件を乙巳士禍といいます。
この事件でユン・ウォニョン達小尹派が権力を独占する時代になりました。
オクニョで描かれる時代は小尹派が権力を独占する時代。
文定大妃が亡くなるまで小尹派の時代が続きます。
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