于謙(う けん)は15世紀の明の武将で政治家。
宣徳帝から信頼され。漢王の乱の鎮圧や地方の行政で功績をあげました。
正統帝の時代には首都の守りを担当。明とオイラトの戦争では、皇帝がオイラトの捕虜になるという大ピンチをしのいで北京を守りきり。景泰帝を即位させました。
オイラトとの和平と正統帝の釈放にも尽力しています。
景泰帝が病に倒れるとクーデターを起こされ処刑されました。
史実の于謙はどんな人物だったのか紹介します。
于謙(う けん)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1398年5月13日
没年月日:1457年2月16日
姓 :于(う)
名称:謙(けん)
国:明
父:于仁
母:
妻:董氏
子供:于冕
彼は明朝の主に宣徳帝・正統帝・景泰帝の時代に活躍しました。
日本では室町時代になります。
おいたち
于謙は洪武31年(1398年)に誕生。
出身は銭塘(浙江省杭州市)。
永楽19年(1421年)。科挙に合格。
宣徳元年 監察御史になりました。
于謙は弁論が上手だったので宣徳帝・朱瞻基は彼の言うことに耳を傾けました。部下に対しては非常に厳しかったといいます。
漢王 朱高煦の鎮圧で手柄を立てる
漢王 朱高煦が反乱を起こしたときには宣徳帝の親征に付き従って反乱鎮圧に従軍しました。朱高煦が投降したときには宣徳帝の命令を伝える役目を任されました。于謙の声は威圧的で激しいもので、于謙の口から宣徳帝の命令を聞いた朱高煦は地面にひれ伏して震えたといいます。
その様子に宣徳帝は満足。于謙は大臣と同じ報酬を受け取りました。
宣徳5年(1430年)。兵部右侍郎になりました。河南や山西に派遣され、不正を行う役人を逮捕。騎馬に乗って管轄地域を視察、改善が必要なところを探しました。水害や災害が起きたときは、何度も中央に支援を要請。民衆の暮らしを観察して改善の提案をすることに熱心でした。
報告を受けた宣徳帝は必要な工事を命令しました。
正統帝の時代
正統帝・朱祁鎮(しゅちきん)が即位。朱祁鎮は2回即位しているので廟号の「英宗」でよばれることもあります。
正統時代の最初。まだ三楊(楊士奇、楊栄、楊溥)たちがいたころは、于謙の報告も重要視されていました。于謙が提出した案件は短い期間に承認されました。
ところが于謙は賄賂を渡さない人だったので高官たちからは嫌われていました。
賄賂を渡さないと嫌われるのは理不尽に思うかもしれませんが。中国とはそういう国です。
三楊が次々に死亡。宦官の王振が政治を仕切る時代になります。
あるとき、偶然にも于謙に似た名前の役人が王振を怒らせてしまいます。
李錫はそれにつけこんで于謙に弾劾をおこします。于謙は捕らえられ3ヶ月間投獄されました。
やがて周囲からの嘆願で王振も間違いに気がつきました。于謙は釈放されて仕事に復帰。于謙を陥れた者は降格になりました。
土木の変と景泰帝の即位
オイラトとの戦争が始まる
正統13年(1448年)。明朝は北方の守りを強化するため。于謙は都によばれ「兵部左侍郎」に任命されました。
正統14年(1449年)7月。エセン率いるオイラト軍が明に攻めてきました。
王振の提案で正統帝が自ら遠征を行うことになりました。兵部尚書の鄺埜や于謙たち多くの臣下は正統帝の親征に反対しましたが聞き入れてもらえません。
明は中国史上とくに独裁の強い国なので、皇帝がやると言ったら臣下が反対してもだめです。
正統帝と王振は自称50万(実際は20万程度といわれます)の軍を率いて遠征。土木堡でオイラト軍と戦って大敗しました。王振や従軍した多くの将兵が戦死し(死者10万ともいわれます)。英宗は正統帝になってしまいました。
エセンはさらに首都北京に攻めてきました。
北京に「皇帝が捕虜になった」という報告が届くと都の人々は大混乱になりました。
怖気づいた文官の徐有貞は星占いを持ち出して副都・南京へ遷都を主張しました。
于謙は「南遷(南京に遷都)を言う者は斬る。京師(北京)は天下の中心だ。ひとたび動けば大変なことになる。宋が南に遷都として滅びたのを忘れたのか!」
と言って遷都に反対。北京の死守を主張しました。
かつて宋は首都を金に攻められて皇帝を拉致され。皇帝の弟が南京で即位しましたが。北部を捨てた宋に北方民族に抵抗する力はなく。やがて金を滅ぼしたモンゴルに宋も滅ぼされました。于謙はそのことを言ってます。
エセンとのかけひき
さらに皇太后孫氏の許可を得て、監国(皇帝代行)の郕王 朱祁鈺(しゅ・きぎょく)を即位させました。景泰帝の誕生です。
英宗は太上皇帝になり。その子の朱見深(後の成化帝)が皇太子になりました。
于謙は王振の一族を処刑。北京に残る軍が少なかったので各地から援軍を呼び寄せ北京の守りを強化しました。
10月。エセン率いるオイラト軍が居庸関を越えて北京に迫りました。
于謙は明軍を指揮してオイラト軍を攻撃。撃退。エセンは長城の外に撤退しました。
エセンは朱祁鎮を人質に身代金を要求。孫太后は私財をなげうって身代金を支払い釈放しようとしました。
しかし于謙は身代金の支払いを拒否しました。
オイラトとの戦争は貿易の利権争いが原因です。エセンの目的は領土拡大ではなく「お金」でした。明との戦争が長引いて貿易が減れば困るのはエセンです。そこで明の朝廷はエセンとは別にオイラトの王・トクトア・ブハ・ハーンに貿易の利権を与えて交易を一部再開。
エセンはオイラトのハーン(王)でななくタイシ(宰相)です。形だけの王だったトクトア・ブハ・ハーンが実際に利権を持てば、エセンの立場は弱くなり。戦いが長びくほどエセンにもうけがなくなり、部族長たちもエセンを支持しなくなります。
于謙と仲間たちはオイラトが何を必要としているか、エセンの弱点を理解していました。我が子がかわいい孫太后はそこが理解できていません。
景泰元年(1450年)。苦しくなったエセンは明と和平を結びました。朱祁鎮は釈放されもどってきました。
朱祁鎮は宮中に軟禁され。景泰帝は皇帝の座にとどまりました。
景泰帝の時代
于謙は景泰帝を補佐して軍の改革を行い。国の守りを強化しました。
景泰帝は于謙のいうことをよく聞き。于謙は景泰帝から全面的な支持と信頼を得ました。人事についても景泰帝は于謙の意見を求めるようになりました。
すると採用されなかった人は于謙を恨むようになりました。于謙が権威的だと批判する人もいました。
于謙は有能な人物なのですが、人にも厳しくて融通のきかない性格。軟弱な大臣や皇族を見下していたこともあり。景泰帝の信頼が大きいのをいいことに高圧的になっていたようです。
そこで朝廷内には于謙を嫌うものが多くいました。
于謙は臣下や皇族から批判を浴びましたが、景泰帝は于謙をかばい続けました。
景泰帝は他に信頼できる人がいなかったのでしょう。
奪門の変で処刑
景泰8年(1457年)。景泰帝が病気になり、先は長くないと思われました。
すると于謙を嫌っていた石亨・徐有貞・曹吉祥たちが中心になって太上皇帝をかついで復帰させようと動き出しました。
石亨たちは孫皇太后とも協力して勅命をもらいました。「上皇を助けて賊を討て」というのです。
孫皇太后のお墨付きを得た石亨たちは敵の襲来の誤報を流して。宮殿の門を制圧。朱祁鎮が助け出され。皇帝に復帰。景泰帝は幽閉されました。
于謙が頼りにする景泰帝は病気で動けず。石亨たちは孫皇太后の権威を味方につけました。もともと朝廷内に于謙に批判的な人が多かったこともあり、権威を失った于謙はあっさり敗北。
于謙は謀反の罪で逮捕されました。冤罪に我慢できない王文が反論しましたが、王文も取られられました。
于謙と王文たち彼の仲間は処刑されてしまいます。妻子は流刑になり。財産は没収されました。しかし于謙には景泰帝からもらった褒美の品以外はたいした財産はありませんでした。
于謙と景泰帝が行った改革はなかったことにされ、正統時代の政治が復活しました。
王振が賄賂政治家に変わっただけで明の腐敗は続きます。
その後。成化帝の時代に于謙の名誉は回復されました。
テレビドラマ
女医·明妃伝 2016年、中国 呂梁 役名:于東陽
大明皇妃 2020年、中国 演:蘇可
コメント