李元昌(り・げんしょう)は唐の皇子で政治家。
建国者の高祖・李淵の七男です。
2代皇帝 太祖・李世民の異母弟です。
李承乾は李元昌にとっては甥になりますが。二人は1歳しか歳が離れていません。そのため二人は仲がよくよく一緒に遊んでいました。
李承乾が皇太子になってからも彼に協力しました。皇太子・李承乾が魏王・李泰と敵対。二人の対立はやがて謀反事件に発展。
李承乾は処分されました。李元昌も処刑になってしまいます。
史実の李元昌はどんな人物だったのか紹介します。
李元昌の史実
いつの時代の人?
生年月日:619年
没年月日:643年
名称:李元昌(り・げんしょう)
称号:魯王 → 漢王
父:高祖・李淵(り・えん)
母:孫嬪
妻:不明
子供:不明
日本では飛鳥時代になります。
隋の時代
武徳2年(619年)に生まれました。
父は唐公・李淵。
母は妾の孫氏。
李元昌は李淵の七男です。
異母兄に李世民がいます。
兄弟といっても李元昌と李世民は21歳の年の差があり、親子ほど離れています。
武徳3年(620年)。「魯王」になりました。
唐の時代
貞観元年(627年)。李淵が皇帝に即位。唐が建国しました。
8歳と幼かった李元昌は唐の建国には関わっていません。
貞観2年(628年)。散騎常侍に任命されました。皇帝の詔や命令を伝える役目です。
でも李元昌は10歳にもなっておらず幼いので形だけの任命でしょう。
李淵は隋王室の親戚でした(李淵の母は隋文帝・楊堅の正室・独孤皇后の姉)。李淵の息子たちも優遇されていたようです。
李淵昌は若いころは学問好き。書道と乗馬が得意でした。
貞観5年(631年)。西韓州刺史になり、そのあとすぐに華州刺史に変更になりました。
(刺史=州の長官。軍を動かす権限は持ちません)
貞観8年(634年)、梁州刺史になりました。
貞観10年(636)正月。「漢王」の称号を与えられ。梁州都督になりました。
(都督=州を守る軍団司令。刺史を兼ねて地方の行政と軍事を担当することもあります)
違法行為を働き太宗・李世民から叱られます。
貞観17年(643年)。隴州刺史に降格になりました。
李元昌は反省せず、むしろ太宗・李世民を恨んだといいます。
皇太子・李承乾に協力して謀反
李元昌は李淵の息子とはいっても兄の李世民たちとは歳が離れています。
むしろ李世民の息子(李元昌の甥)李承乾とは1歳違い。歳が近い李元昌と李承乾は非常に仲が良く、よく一緒に遊んでいました。
李承乾が皇太子になってからは、李元昌は李承乾を皇帝にできるように協力しました。
ところが李承乾は父の太宗・李世民からはあまり好かれておらず。太宗・李世民は魏王・李泰を可愛がり、様々な優遇を与えました。周囲の重臣たちも魏王・李泰に媚びへつらうようになりました。皇太子・李承乾は自分の地位が危なくなると焦ってしまいます。
漢王・李元昌は皇太子・李承乾が魏王・李泰を嫌っていると知ると、李元昌も李承乾と一緒に李泰に敵対します。
貞観17年(643)4月。皇太子・李承乾、漢王・李元昌、兵部尚書の侯君集が共謀してクーデターを起こしました。でも失敗しました。
太宗・李世民は勅令で李承乾たちの命を助けようとしました。でも大臣の 高士廉、李世勣たちが反対しました。太宗・李世民は処刑を決定します。
4月6日(29日)。李元昌は自宅で賜死を迎えることになりました。
享年25歳。
妻子は捕らわれ身分を剥奪されました(おそらく奴婢に落とされていると思われます)。
10月15日(12月1日)。国公の格式で雍州の高陽園に葬られました。
大唐流流の梁王
中国ドラマ「大唐流流」では「梁王 雲尚」の名前で登場します。
大唐流流 2021年、中国 演:唐曾 役名:梁王 雲尚
太上皇の庶子。
皇帝の弟。
生母は蘇太妃。
性格は横暴で法律違反も繰り返しています。歆楠公主に仕える宮女・珍珠を軽々しく扱います。
傅柔を強引に自分の妻にしようとします。太子とは仲がよく、覆水、陸琪、侯昌たちと協力。太子の地位を守るため、韓王に危害を加えようとします。
東宮での事件の後。獄中で賜死しました。
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