中国ドラマ「万華楼~金糸が紡ぐ運命の恋~ 」では「銀城」という街が舞台になっています。
ドラマの冒頭では銀城とはシルクロードの中継地点にある貿易で栄えた街と紹介されています。
唐の時代には実際に銀城という街があったのでしょうか?
あったとしたら銀城はシルクロードのどこにあったのでしょうか?
本当に貿易で栄えていたのでしょうか?
「万華楼」の舞台になった街の紹介と歴史を紹介します。
銀城とは
剣南道
まずは銀城が所属している剣南道から。
剣南道のある地域は蜀とも呼ばれ。三国志の時代には劉備の 蜀(蜀漢)の国があったところでした。首都は成都でした。
唐の時代になって。
貞観元年(627年)。太宗は全国を十の道にわけました。
剣南道はそのひとつ。
剣南道の首都は益州 成都。
剣南道には現在の四川省のほとんど、雲南省瀾滄江、貴州省、甘肅省の一部が含まれます。
今の四川省のあたりなのでドラマの中でも辛い食べ物が出てきます。
ドラマの時代の唐とその周辺はこのようになっています。
安史の乱の後。
乾元元年(758年)には西川節度使と東川節度使が置かれ。朝廷の直轄支配を離れます。以後、節度使の支配下にありました。
ドラマでも杜長風が「西川節度使」として登場します。
節度使は「知事と軍の司令官を兼任している」のでかなり大きな権限を持っています。
銀城は剣南道の地方都市
ドラマの舞台になる「銀城」とは剣南道にあった岳池県の別名。現在の四川省広安市岳池県。
中国の「県」は日本の「県」と違い都市レベル(市)の大きさ。
日本で「城」といえば砦・要塞のことですが。中国では「城」といえば城壁で囲まれた城塞都市を意味します。「銀城」は軍事拠点ではなく普通に人々が暮らしている「街」なのです。
この地に県が置かれたのは武周の萬歲通2年(679年)。
安岳山の山上に岳池(翠湖)があり、その湖の名をとって岳池県と呼ばれました。
なぜ「銀」なの?
現代人は地名に金や銀がついてるとどうしてもゴールドやシルバーなど貴金属やお金(マネー)を想像していしまいます。
でも銀城の由来は「銀(シルバー)」が採れるからではありません。
剣南道は温暖で気候の良い地域。豊かな穀倉地帯が広がり。米の生産が盛んだったので「銀城」とよばれました。
つまり「銀」とは「白米」のことなのです。
日本でもお米のことを銀シャリと言いますよね。
昔の人にとってお米は貴重品でした。でも金や銀ではお腹は満たせません。食べ物や他の物に交換してくれる人がいる。平和で市場経済がちゃんと動いているから金や銀の価値が出るのです。
でもお米は食べられます。昔の人にとってお米は生きていくために大切です。他の物とも交換できる。必要ならお金にも交換できる。とっても大切な物だったのです。
米は白っぽくて貴重なもの。だから「銀」と呼んだのです。
実際の銀城はシルク(絹)の交易で栄えた街ではなく。米で栄えた街なのです。
シルクがないのにシルクロード
シルクロードといえば普通は長安からオアシスや草原、砂漠をぬけて西域に向かう西北の交易路のことをいいます。このルートは実際にシルク(絹)が主な商品として運ばれたのでシルクロードと呼びます。
といってもシルクロードの名前がついたのは19世紀にドイツ人学者ののリヒトホーフェンが著書「チーナ(China)」の中で長安とソグディアナ(今のタジキスタンのあたり)を結ぶ絹の交易路のことを「ザイデンシュトラーセン(Seidenstraßen:絹の道)」と書いたのが始まり。
ザイデンシュトラーセン(Seidenstraßen)の英語訳がシルクロード(Silk road)です。
だから昔の中国人や中央アジアの人々がシルクロードと呼んでいたのではありません。
大昔に商人が行き来した場所をまとめてなんとなくそう呼んでいるわけです。
でも交易路はほかにもあります。
この図では大まかに交易路を描きましたが。実際にはもっと複雑でいろいろなルートがありました。
成都はチベット(吐蕃)や東南アジア方面の交易路の起点にもなりました。シルク(絹)ではなく茶葉が主な産物だったので「茶馬古道」といわれます。
そうです。南のシルクロードでは シルク(絹)は主な取扱商品ではないのです。シルクが運ばれていないのにシルクロード。おかしいですね。
だから絹の交易路ではないのでシルクロードと呼ぶのはふさわしくないという研究者もいます。
でもシルクロードは世界的に知られた有名な名前です。マスメディアではシルクロードと呼ぶことが多いです。絹の交易路のシルクロードに対して、こちらのルートを南西シルクロード、南のシルクロードとよぶこともあります。
中国人自身も自分の国の歴史はよく知らないらしく。欧米ウケがいいから中国人も好んでシルクロード「絲綢之路(省略して 絲路)」と言います。(中国人も日本人と同じように白人コンプレックスがあるのです)
事実よりもロマンがあってかっこいいからなんとなくそう呼んでいるわけです。
李清流の店の名は ニューシルクロード
ちなみに李清流の店の名は「新絲路(ニューシルクロード)」。
「いや唐の時代の人は 絲路(シルクロード)って言わないでしょ」というツッコミは無しでお願いします。
銀城が交易で栄えたたかどうはおいといて。剣南道の中心都市・成都が交易の中継地点として栄えたのは事実。
もちろん人が集まる所には織物を売る店もありますから、都市にそういう店があるのはおかしくありません。
でも銀城はシルクの売買で賑わっている街ではないのです。
まあ細かいところは気にしないことにしましょう。たまたま李清流たちがそういう商売をしている。ということで。
南の経済力は安史の乱後の唐を支えた
安史の乱で西域をチベットやウイグルが支配すると唐の商人たちは西域を通るシルクロードを使うのを避けるようになりました。
変わって賑わったのが長安~成都~チベットや東南アジアに向かう南方の交易路です。チベットの先はインドにつながってます。
安史の乱から後の唐の後半は南方の経済が唐を支えたといってもいいくらいです。南方との貿易で栄えたのが成都とその周辺の都市です。銀城も当時は賑わっていたでしょう。
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