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沈慶之 は皇帝を仕え続け悲劇的な最期をむかえた老臣

6 南北朝

沈慶之(しん・けいし)は中国南北朝時代の武将。

南朝の劉宋を支えた重臣です。

劉宋で5代の皇帝に仕えました。北魏との戦いで功績をあげ皇帝からも信頼の厚い人物でした。

しかし劉宋は皇帝の座をめぐる争いが多く。沈慶之の仕える皇帝が何度か変わりました。とくに最後に仕えた前廃帝・劉子業は評判が悪く、重臣たちかから挙兵して皇帝を廃そうとさそわれましたが。断っていました。

でも沈慶之が支えようとしていた前廃帝・劉子業に裏切られて処刑されてしまいます。

史実の沈慶之はどんな人物だったのか紹介します。

 

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沈慶之の史実

沈慶之はどんな人?

姓 :沈(しん)
名:慶之(けいし)
字: 弘先

国:宋(劉宋)
称号:南昌縣公→始興郡公

生年月日:386年
没年月日:465年

 

彼は東普末期から南朝 劉宋の5代前廃帝の時代に活躍した人物です。

日本では古墳時代になります。

家族

父:不明
母:不明
妻:不明

子供:沈文叔、沈文季、沈文耀

 

普(東普)時代

東普末期の386年。呉興武康(現在の中国浙江省湖州市)で生まれました。

武康の沈氏は古くから江南の地に住み続けている地元の豪族でした。

東普では華北からやってきた東普王族の司馬氏や琅邪王氏、謝氏が大きな力をもっていて。このころになると沈氏は新しい名家に押され気味でした。

沈慶之は若いころから勇猛果敢で知られていました。

402年。孫恩が反乱を起こしました。

沈慶之は20歳ごろの歳でしたが一族を率いて反乱軍と戦いました。

しかし反乱の被害は大きく、武康県の人々は逃げてしまって荒れ果てました。沈慶之は自分で田畑を耕して生計をたてました。

30歳のころ。襄陽にいる兄の沈敞之を頼って襄陽に向かいました。

兄の上司・趙倫之は沈慶之を高く評価しました。沈慶之は趙倫之の息子で竟陵太守をしている趙伯符の部下になりました。竟陵郡で何度も異民族と戦い手柄をたてました。

 

宋(劉宋)建国後

420年。武帝 劉裕が宋(劉宋)を建国。

421年。沈慶之は「殿中員外将軍」に昇進。

趙伯符とともに北伐(北魏との戦争)に従軍しました。ところが戦いの途中で趙伯符が病に倒れ前線を離れると沈慶之は檀道済の指揮下で戦いました。

この戦いで沈慶之は 文帝 劉義隆から忠実で軍事に詳しいと評価され、東門を守る禁衛軍の指揮官に任命されました。

その後、淮陵太守になりました。

435年。文帝が病気になり、彭城王 劉義康(りゅう・ぎこう)が皇帝の代わりに政治を行うようになりました。

劉湛(りゅう・たん)は彭城王に協力。やがて文帝に代わって彭城王を皇帝に担ごうとします。

劉湛は沈慶之を味方にしようと昇進をちらつかせ勧誘しましたが、沈慶之は拒否しました。

440年。病気から復帰した文帝は劉湛の動きを知り。劉湛とその派閥を逮捕しようとしました。そこで沈慶之を呼び出して意見を聞きました。

沈慶之はすでに文帝が呼び出した理由を察していたので軍服を来て皇帝に会いに行きました。文帝は驚きました。文帝はます、沈慶之に呉郡太守・劉斌の抹殺を命令しました。劉斌は彭城王や劉湛の仲間で武力をもっています。沈慶之は劉斌を攻めて劉斌とその子供、仲間を殺害しました。

負けを悟った劉湛は母の死を理由に辞職しましたが逮捕され処刑。仲間を失った彭城王は辞任届けを出しました。文帝は彭城王を地方に左遷しました。

442年。雍州で反乱が起こりました。征西司馬の朱脩之が鎮圧に失敗。次に沈慶之が派遣され鎮圧しました。

沈慶之は北中郎中兵参軍や領南東平太守などを務めました。このころから劉駿のもとで働くようになりました。

445年。劉駿が雍州刺史になり沈慶之も一緒に雍州に向かいました。

449年。雍州で地方の部族が反乱を起こしました。沈慶之が派遣され反乱を鎮圧しました。その地域の部族達は沈慶之の帽子を見て「蒼頭公」と呼んで恐れました。

北魏との戦い

450年。沈慶之は太子の步兵校尉になりました。

その年。文帝は北魏攻めを決定。沈慶之は戦争に反対しましたが文帝の決定は変わりません。

沈慶之は王玄謨の副官になって北魏との戦いに派遣されました。碻磝城を攻めました。碻磝城を占領しました。沈慶之と蕭斌が碻磝に残り、王玄謨が滑臺を攻めました。

ところが王玄謨は滑臺の攻略に手間取り、北魏の太武帝が援軍を率いて到着。

蕭斌は沈慶之に5千の兵を率いて王玄謨の援護に向かうように言いました。沈慶之は「そんな少ない兵では意味がない」と言いましたが、蕭斌がどうしてもと言います。ところが沈慶之が出陣する前に王玄謨が負けて帰ってきました。

蕭斌は王玄謨を斬ろうとしましたが、沈慶之は兵たちが動揺するので王玄謨の処刑を止めさせました。

蕭斌は碻磝を死守するつもりでした。沈慶之はこのままでは包囲されると考え撤退を進言。ところが文帝が「撤退は禁止する」と勅命を送ってきました。結局、王玄謨を碻磝に残し。蕭斌は歴城に移動。沈慶之は都・建康に戻る事になりました。

彭城防衛戦

建康に戻る途中。文帝から「王玄謨を救出するように」命令が届き救援に向かおうとしました。すでに北魏軍は彭城に向かっていたので北上はできません。沈慶之は彭城に向かい、江夏王 劉義恭の指揮下にはいり「安北中兵参軍」になって戦うことになりました。

北魏軍が数km先まで迫ってくると劉義恭は逃げ出そうとしました。沈慶之は蕭思話に精鋭部隊を与えて彭城の守りに残し、大隊で箱型陣形を作り劉義恭と劉駿の2王を歴城に移す案を提案。他の将軍たちも様々な案を出しましたがまとまりません。張暢が城に残って戦う案を出して武陵王 劉駿が賛成。すると江夏王 劉義恭も残ると言ったので。彭城に残ることになりました。

太武帝が率いる北魏軍が彭城にやってきて開門を要求しました。劉宋軍は拒否。劉宋の張暢と北魏の李孝伯が対談。交渉はまとまらず。李孝伯が戻った後、北魏軍の攻撃が再開されました。

劉宋軍が守る彭城は容易には陥落せず。太武帝は彭城を通り越して他の城の攻撃に向かいました。北魏軍の撤退後。文帝はまた北魏軍が来るといけないので沈慶之に命令して彭城内の数千の人々を瓜步に避難させました。

再び北魏との戦い

452年。北魏の太武帝が死去。それを知った文帝は北魏攻めを決定。沈慶之は戦争に反対しました。でも文帝は聞きません。北魏攻めは決行されました。

今回は沈慶之は出陣していません。

結局、北魏攻めは失敗しました。

この年。沈慶之は反乱軍の鎮圧に向かっています。鎮圧は成功しました。

 

皇太子 劉劭の反乱

司馬黒石と夏侯方が反乱を起こしました。文帝は沈慶之に鎮圧を命令。沈慶之は出陣しました。

453年。現地の武将と合流して作戦を相談中に都の建康では太子劉劭が文帝を殺害。自らが皇帝だと宣言しました。

それを知った劉駿は沈慶之に連絡、兵を集めるように指示しました。

劉劭は沈慶之に密書を送り「劉駿を殺害するように」と命令を送りました。

沈慶之は劉劭に従うつもりはなく、劉駿に味方するために劉駿のもとに向かいました。そして劉駿に会って劉劭から送られた密書を見せると劉駿は本当に自分を殺しに来たと思って「死ぬ前に母に分かれを告げたい」と泣き崩れるのでした。

沈慶之が劉駿に味方すると言うと、劉駿は作戦の指揮を全面的に沈慶之に任せました。

沈慶之と柳元景は劉駿に皇帝になるように進言。劉駿も皇帝になりました。孝武帝の誕生です。

劉駿と沈慶之たちは建康に攻め込み。劉劭は敗れて処刑されました。

孝武帝の時代

沈慶之は南昌縣公、車騎大将軍になりました。

454年。南郡王 劉義宣(りゅう・ぎせん)、豫州刺史 魯爽、江州刺史 臧質が反乱を起こしました。

孝武帝は沈慶之と薛安都、王玄謨に鎮圧を命令、反乱を鎮圧しました。

455年。70歳と高齢になったので引退を願い出ましたが孝武帝は許可しませんでした。その後も何度か引退を願い出ますがそのたびに断られました。

459年4月。孝武帝の弟・竟陵王 劉誕(りゅう・たん)が反乱を起こしました。

孝武帝は沈慶之に反乱の鎮圧を命令しました。

沈慶之の軍が劉誕の立て籠もる広陵城に近づくと、劉誕は城を放棄して逃亡しようとしましたが、部下に説得されてとどまりました。

城を巡る戦いが続き。長雨もあって城の陥落には時間がかかり。孝武帝が早く鎮圧するように怒り出しましたが。江夏王 劉義恭がとりなして処罰は免れました。

7月2日。沈慶之は全軍で城を攻撃。城門の突破に成功し、劉誕を討ち取りました。

その後も各地の反乱の鎮圧に向かいました。

464年。孝武帝が死去。孝武帝の長男・劉子業が即位しました。

前廃帝の時代

沈慶之は劉義恭、柳元景、顔師伯、王玄謨とともに顧命大臣になりました。劉子業はまだ17歳と若かったので前の皇帝の遺言で補佐する大臣が必要だったのです。

劉子業は沈慶之に軍の全権を預けました。

ところが劉子業の行いがあまりにもひどいので臣下達は沈慶之に劉子業を廃しようと相談しました。

劉義恭、柳元景、顔師伯は劉子業を廃するために挙兵の準備を始めました。柳元景が沈慶之に挙兵の計画を漏らし協力を求めました。でも沈慶之は劉義恭や顔師伯とは親しくなくなかったので反乱には加わらず、劉子業にその計画を報告しました。

劉子業は劉義恭、柳元景、顔師伯を処刑。沈慶之を侍中、太尉に昇進させました。

蔡興宗がやってきて「沈慶之の威光があれば軍を動かすことができ劉子業を廃せる」と言いましたが。沈慶之は謀反はしないと断りました。

沈慶之の最期

沈慶之は謀反には加わりませんでしたが、劉子業の行いを改めさせようと劉子業に説教していました。でもうるさい沈慶之は劉子業に嫌われてしまいます。

その後も何邁が劉子業を廃そうとして失敗。劉子業に殺害されました。

劉子業はまた沈慶之にうるさく言われると思い、沈慶之の甥・沈攸之(しん・ゆうし)を呼び出して毒を飲ませるよう命令しました。沈攸之は沈慶之のせいで褒美が減らされ、出世が送らされたと思って恨んでいました。

沈慶之は沈攸之が持ってきた毒を飲むのを拒否しました。しかし沈攸之によって窒息死されてしまいます。享年80。

表向きは病死の発表でした。

その後、息子の沈文叔、沈文季も殺害されました。

人望を失った劉子業は湘東王劉彧、阮佃夫、李道児に殺害されました。劉子業は前廃帝とよばれます。その後、劉彧(明帝)が即位しました。

ドラマの沈慶之

鳳囚凰 〜陰謀と裏切りの後宮〜 2018年、中国 演:楊洪武

驪妃

 2020年、中国 演:張兆輝 役名:沈廷章
史実とはかなり違いますが「沈廷章」のキャラクター設定は沈慶之を参考にしているようです。北魏との戦いで善戦して街を守ったり、「安北将軍」に任命されたり。朝廷に忠義を尽くしますが最後は親子ともども悲劇的な最後を迎えたり。共通点も多いです。

死因を作ったのが甥(ドラマでは姪)なのも似ています。

でもドラマでは彭城王派ですが。史実の沈慶之は文帝派。娘が彭城王と結婚することもありません。沈慶之が殺されたのは文帝の時代ではなくその後の次代。違う部分も多いです。だから名前を変えてあるのです。

 

 

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