中国ドラマ「贅婿(ぜいせい)ムコ殿は天才策士」の太師 賀元常(ホー・ユエンチャン)にはモデルになった人物がいます。
宋(北宋)の蔡京(さい・けい)です。
蔡京は北宋の徽宗時代の重臣でした。徽宗時代に太師を務めました。権力欲が強く、敵対する者を粛清。浪費癖のある徽宗のご機嫌をとるため民には重税を課してていました。
金と同盟して遼から燕雲十六州を奪おうとしたのも蔡京たちでした。
ドラマの武朝は北宋をモデルにしています。
梁国のモデルが遼(契丹)
靖国のモデルが金です。
史実の国と人物の関係を知るとなぜドラマではあのように描かれているのかわかりやすくなります。
賀元常のモデルになった蔡京とはどのような人物だったのか紹介します。
ドラマ「贅婿(ぜいせい)」の賀元常
賀元常(ホー・ユエンチャン)
演:錢波
賀元常は太子太師という皇帝の世話係。名誉職みたいなもので皇帝に助言を与えるのが仕事。皇帝は賀元常を頼りにしていましたが。賀元常はしばらく朝議に出席していませんでした。劇中ではかつて梁国との歳弊をまとめた張本人。
強硬派の秦嗣源とは対立しています。
靖国との戦争が始まると、秦嗣源を差し出して和平をまとめようとしますが。靖国王によって殺害されます。
賀元常のモデル 蔡京(さい・けい)とは?
蔡京は1047~1126年の間に生きた北宋の大臣。
1070年に科挙に受かった後、様々な役職をこなして首都・開封府の知府(知事)になりました。
神宗の時代、北宋では税や制度を新しくしました。ところが新しい制度を進めようとする新法派と、昔ながらの古いやり方を守る旧法派の争いが起きていました。
北宋6代皇帝 神宗の死後。哲宗が即位。皇帝は幼かったので宣仁太后が垂簾聴政をしました。宣仁太后や宰相の司馬光は旧法派。神宗が決めた新法を古いものにしろと命令を出しました。
開封府の知府をしていた蔡京は期限通りに旧法を復活させ。司馬光から褒められます。でも蔡京は神宗時代には新法を指示していました。権力者が変われば言われるがままに支持するやり方は新法派からも批判をあびて失脚しました。
宣仁太后の垂簾聴政が終わり。哲宗が政治を行うようになりました。すると哲宗は新法を復活させました。
このころ蔡京は官僚や後宮との関係を深め出世の機会を伺っていました。
その哲宗も6年で死亡。
8代 徽宗の時代になりました。徽宗は成人していましたが、大臣からも不安の声がでるほど政治の才能がなく。向太后が仕切っていました。蔡京は向太后に取り入っていたので朝廷に復帰。
徽宗時代
徽宗は向太后派の蔡京を警戒、一度は解任されましたが。徽宗が側近の韓忠彦・曾布の政治に満足できなかったことや、蔡京を支持する官僚たちが復帰させるように働きかけたので。蔡京は朝廷に復帰。やがて蔡京は太師(宰相)になりました。
蔡京は自分に反対する者に「旧法派」のレッテルを張って粛清。新法・旧法の支持に関係なく蔡京に敵対する者は粛清の対象になりました。
徽宗は政治に関心がないだけでなく。趣味に非常に凝っていました。道教や絵画・書画が好きで芸術活動をしていたのですが。そのために各地から珍しい樹木や岩を集めて大きな庭園や宮殿を作ったり膨大な工事を行わせました。
蔡京は徽宗のために「新法」と言って税を多く集め、徽宗が遊ぶための財源にして、土木工事をしました。重税や土木工事に駆り出された民衆の負担は重くなっていきます。
負担に耐えられなくなった民が賊になって反乱を起こすこともありました。その反乱が方臘(ほう・ろう)の乱です。
燕京六州を手に入れる
当時。北宋は遼(契丹)に毎年貢ぎ物(歳弊)を送っていました。歳弊の負担はそれほど大きくないのですが。異民族に歳弊を送ることが嫌でした。
遼が持っている燕雲十六州の「奪回」も目指していました。「奪回」といっても燕雲十六州はもともと北宋の領土ではなく、後晋が遼(契丹)に渡したもの。他人の領土を奪回というのもおかしいですが。長城から南を統一したい北宋としてはぜひとも手に入れたい土地なのです。
このころ女真人が金国を建国。遼の大軍が金に敗れたことを知ると蔡京や童貫たちは喜んで。金と同盟して遼に攻め込み燕雲十六州を奪回しようと徽宗に進言しました。
そこで北宋が遼に送っていた歳弊を金に送るかわりに北宋と金が遼に攻め込み奪った燕雲十六州の一部を北宋が譲り受けるという条約が結ばれました。(海上の盟)
約束に従って金は遼に攻め込みました。北宋は南で方臘の反乱がおきて鎮圧に時間がかかり出兵に遅れました。ようやく北宋軍が燕京(今の北京)を攻めましたが、遼に撃退されます。そこで北宋は金に援軍を以来。金はあっさりと燕京を攻め落としました。
金の重臣は「北宋は約束を守らなかったのだから土地は与えなくていい」と言いましたが。金の皇帝ワンヤン・アクダは燕京とその周辺六州を北宋に与えました。そのかわり燕京にいた住民は他の金の土地に移住させました。
金との戦争で責任をとって粛清される
ところが北宋は「海上の盟」で約束した歳弊を金に送りませんでした。それだけでなく、遼と同盟して金を攻めようとしました。
そのころ金はアクダが病死して弟のウキマイが国王になっていました。ウキマイは約束破りを繰り返す北宋に怒って北宋攻撃を命令。金軍は北宋に攻めてきました。
慌てた徽宗は息子の 欽宗 趙亶に譲位。一部の家来を連れて逃げました。
欽宗はもともと蔡京が嫌いでした。欽宗は蔡京と対立していた李綱を採用し。蔡京や童貫たち徽宗につかえていた6人の重臣の処刑を逮捕。処刑することに決めました。蔡京は逮捕されましたが、高齢のため処刑が実行される前に死亡しました。享年80.
その後。北宋は金に首都・開封まで攻め込まれて占領されます。欽宗や徽宗(欽宗に連れ戻されて開封にいた)は連行され。北宋は滅亡します。
後に生き延びた皇族(高宗)が南宋を建国しましたが。北宋の領土の北半分を失ってしまいます。南宋は金の臣下の国になり歳弊を贈ることになります。
人々は蔡京が処刑にならなかったかったのを大変悔しがったといいます。このとき逮捕・処刑された6人の臣下たちは「六賊」と呼ばれます。
以後。蔡京は大罪人として語られるようになりました。
蔡京は小説「水滸伝」でも悪い重臣として登場します。
ドラマと史実の違い
「贅婿(ぜいせい)」のモデルになっているのは北宋の徽宗の時代。北宋の徽宗がドラマの武朝 皇帝のモデルです。
ドラマのライバル秦嗣源は961~1023年に生きた寇準をモデルにしているので。実際にモデルになった蔡京と寇準が会ったことはありません。架空王朝を舞台にしているので北宋の様々な人物をアレンジしてドラマに登場させています。
性格も政治の方針も違う2人が同じ時代にいたら?というif設定がドラマ「贅婿(ぜいせい)」の面白いところです。
ドラマ「贅婿」では六州を奪回したのは寧毅の手柄になっていますが。歴史上は賀元常のモデルになった蔡京たちのアイデアでした。でも下手に金を利用しようとした結果、北宋は滅んでしまうので功績よりも損失の方が大きすぎるのですけど。
コメント