遼 穆宗 耶律述律(やりつ・じゅつりつ)は遼(契丹)の第4代皇帝。
漢名は劉璟(りゅう・けい)。
そのため耶律璟(やりつ・けい)と書かれることもあります。
3代皇帝 世宗は一族の内乱で暗殺され。穆宗 耶律述律は王族たちに担がれる形で皇帝になりました。もともと君主に向いていなかったのか。穆宗の時代は反乱が多発。穆宗 自身も狩りに夢中になり、酒と睡眠を貪る生活をおくるようになります。
些細な事で人を殺すようになり。最終的には酔ったところを従者たちに殺害されてしまいます。
史実の穆宗 耶律述律はどんな人物だったのか紹介します。
穆宗 耶律述律の史実
いつの時代の人?
生年月日:931年9月19日
没年月日:969年3月12日
姓 :耶律(やりつ)氏
名称:述律(じゅつりつ)
漢名:劉璟(りゅう・けい)、劉明(りゅう・めい)
国:大契丹国(遼)
廟号:穆宗(ぼくそう)
父:遼太宗 耶律堯骨(やりつ・ぎょうこつ)
母:靖安皇后 簫温(しょう・おん)
妻:皇后 蕭氏
弟:耶律罨撒葛(やりつ・えんさつかつ)
子供:なし
耶律述律が生きたのは契丹(遼)の2代太宗~4代穆宗 耶律述律の時代です。
日本では平安時代になります。
おいたち
931年。契丹で生まれました。
父は契丹(遼)の第2代皇帝 太宗 耶律 堯骨(やりつ・ぎょうこつ)
母は靖安皇后 簫温(しょう・おん)
述律(じゅつりつ)は長男です。
会同2年(939年)。述律に「寿安王」の称号が与えられました。
会同10年(947年)。父の太宗 耶律 堯骨が遠征先で病死。
述律は祖母の述律皇后や弟の罨撒葛とともに首都・上京にいました。
太宗 耶律 堯骨には述律(16歳)や罨撒葛(12歳)など何人かの息子がいますがまだ十代と若かったのであとは継げませんでした。
遠征軍にいた従兄弟の耶律兀欲が皇帝を名乗ります。耶律兀欲は太祖 耶律阿保機の長男・東丹王 耶律突欲 の息子です。
それに怒ったのが祖母の述律皇后でした。耶律李胡とともに挙兵します。しかし世宗の軍が優勢で降伏しました。
耶律兀欲は正式に3代皇帝 世宗になりました。
世宗の時代
天禄5年(951年)。世宗は北漢の要請で後周を攻撃した後、戻ってきました。祥古山(フフホト)で宴会、出席者は酔っ払っていました。すると一族の耶律察割が反乱を計画。耶律述律に反乱に加わるように誘ってきました。耶律述律は断りました。
その日の夜。耶律察割は耶律盆都を誘って反乱を起こしました。宮殿に乱入して世宗を殺害してしまいます。宮殿に耶律屋質は脱出すると王族に異変を知らせました。
耶律察割は妻に宮殿の財宝を見せびらかすと。耶律察割の妻は
「寿安王と耶律屋質が生きていたら私達は生き残れないのになぜこんなことをするのですか」というと。
「なあに寿安王はまだ若い。耶律屋質の兵は少ない。心配することはない」と耶律察割は言いました。
耶律屋質は皇族を集めると耶律述律を次の皇帝にしようとしました。耶律述律は即位を躊躇いましたが。耶律屋質の使者に「察割があなたを捕らえたなら貴方の命はないのですよ」と言われ即位を引き受けました。
耶律述律は耶律屋質に合流。将軍たちも述律のもとには続々と集まってきました。
耶律述律と耶律屋質は集まった兵たちとともに耶律屋質を討ち反乱を鎮圧しました。
その後。耶律述律は正式に即位しました。
穆宗の時代
相次ぐ反乱
天禄5年(951年)。穆宗 耶律述律が即位。このとき20歳。「天順皇帝」と呼ばれました。
世宗 耶律兀欲の死後。新しく皇帝になった穆宗 耶律述律が頼りないと分かると野心を持つものが出てきました。もともと契丹は部族社会で君主は交代制でした。それを太祖 耶律阿保機が強力な力でまとめて君主を世襲制にしました。もちろん不満に思う者はいるので太祖の時代以来、何度か反乱が起きています。
特に穆宗 耶律述律は何の実績もないまま皇帝になったので、穆宗をあなどる王族も多く、兄弟従兄弟だけでなく遠戚の者まで皇帝の座を狙いました。
穆宗の治世は多くの反乱が起きています。それに対して穆宗 耶律述律は徹底的な弾圧を行いました。
応歴2年(952年)。太尉忽古質が反乱したので鎮圧しました。
政事令 耶律婁国、林牙 耶律敵烈、侍中 耶律神都、郎君 耶律海裡 たちが反乱を企てたので逮捕しました。
応歴3年(953年)。弟の耶律罨撒葛が謀反を企んだので投獄。後に釈放して西北の国境の守備につかせました。
応歴9年(959年)。後周の皇帝 柴栄が自ら全軍を率いて遼に攻めてきました。荊州と益州が後周に占領されました。
耶律敵烈、耶律海思、蕭達干たちの謀反が発覚したので逮捕。
耶律壽遠たちが謀反を企んだので処刑しました。
耶律喜隱、耶律留礼寿が謀反を企んだので処刑。喜隱の父・李胡も処刑しました。
応暦15年(964年)。満州北部で遊牧民の烏古が反乱をおこしました。反乱は大規模なもんで鎮圧には応暦16年(966年)までかかりました。
些細なことで人を殺害
何度も起こる謀反でストレスに蝕まれたのか穆宗 耶律述律は酒浸りになり。眠ることも多くなりました。
穆宗 耶律述律は狩猟が好きでした。
応歴14年(964年)。数ヶ月帰って来ませんでした。穆宗は毎日、夜は大臣達を集めて宴会を行い。昼は政務を放置して寝ていました。そのため「睡王」というあだ名を付けられています。
統治の後半はささいなことで人を殺すことが多くなりました。
黒山之変で暗殺される
応歴19年(969年)。2月。穆宗 耶律述律は狩りにでかけました。穆宗は熊を仕留めました。蕭思温たちが酒をついでお祝いしました。その日の夜。泥酔した穆宗は寄った勢いで食べ物を要求。すぐには手に入らないと分かると従者たちを殺そうとしました。すると侍従や6人の調理人たちは、酩酊している穆宗を殺害しました。享年39歳。
穆宗を殺害した者たちは全員捕らえられ処刑されました。
穆宗には子がなかったので重臣たちは 耶律明扆を即位させました。
テレビドラマ
燕雲台 2020年、中国 演:寧理 役名:耶律璟
劇中では 耶律璟(やりつ・けい)の名前で登場。
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