昌王 李嵯(り・さ)は9世紀の唐の皇子。
18代皇帝 武宗 李瀍の五男です。
武宗 李瀍は33歳で他界。次の皇帝になったのは伯父の宣宗でした。
しかし宣宗の時代。昌王 李嵯たち武宗の子どもたちはどうなったのかわかっていません。
史実の昌王 李嵯はどんな人物だったのか紹介します。
昌王 李嵯 の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:不明。846年ごろ?
名称:李嵯(り・さ)
称号:昌王
父:武帝 李瀍(り・てん)
母:不明
子供:不明
彼が生きたのは18代皇帝・武宗の時代。
日本では平安時代になります。
おいたち
昌王 李嵯(り・さ)の生年は不明。
父は武宗皇帝 李瀍
武宗は唐の第18代皇帝です。
母は不明。
昌王 李嵯は武宗の五男でした。
840年。武宗 李瀍が即位。
武宗の即位後。武宗の皇子には「王」の爵位が与えられました。李嵯は「昌王」になりました。
会昌6年(846年)。武宗が死去。道士が作った金丹を服用しすぎたせいだといわれます。金丹は道教などの道士が作る薬で、水銀化合物が入っています。迷信では水銀は不老長寿の効果があると信じられていたので道士が薬に混ぜることはありました。
武宗には杞王 李峻、益王 李峴、兗王 李岐、徳王 李嶧、昌王 李嵯の五人の息子がいました。でも武宗は33歳の若さで亡くなってしまったため、子供はまだ幼いです。誰も跡継ぎにはなれませんでした。
神策軍中尉(軍の指揮官)馬元贄が光王 李怡(即位後に忱に改名)を皇太叔に担ぎ上げ。そのまま皇帝にしてしまいました。それが第20代皇帝 宣宗 李忱です。
当時は宦官が神策軍という禁軍(皇帝直属の軍隊)を指揮する権限を持っていました。宦官たちが武力を使って次の皇帝を決めていたのです。
宣宗 李忱は即位したときには36歳。充分成長した大人でしたが李忱(怡)は身を守るために無能なふりをしていたので宦官たちは操りやすいと考え皇帝にしたようです。
昌王と兄弟は生死不明
宣宗の即位後。昌王 李嵯たち武宗の五人の子どもたちがどうなったのかはわかりません。
昌王 李嵯たち五人の皇子は全員余生を全うできなかったといわれています。五人とも殺されたと考えられています。
その後。唐は宣宗の子孫たちが受け継ぎました。そのため誰も武宗の子どもたちのことは口にせず、記録にも残さなかったということです。
もし武宗の子どもたちが生きていれば宣宗の正当性にも問題が出てきたかもしれません。
テレビドラマ
宮廷恋仕官 2021年、中国
劇中で「先帝の子・昌王」が生きていると話題になります。実際には本物の昌王は登場しません。劇中でももし生きていたら反乱軍に担がれたり、宣宗の地位を脅かす存在になると考えられています。
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