張茂則(ちょう ぼうそく)は宋(北宋)時代の宦官。
4代 仁宋、5代 英宗、6代神宗、7代 哲宗の4人の皇帝に仕えた地位の高い内侍です。
皇帝に忠実で、皇帝や大臣からの信頼も厚い内侍でした。
また贅沢を嫌い、10年間同じ服を着続けたり。給料が多すぎると受け取りを拒否したりしました。
史実の張茂則はどんな人物だったのか紹介します。
張茂則の史実
いつの時代の人?
生年月日:1015年
没年月日:1094年
姓 :張(ちょう)氏
名称:茂則(ぼうそく)
字 :平甫
国:宋(北宋)
父:不明
母:不明
日本では平安時代になります。
おいたち
開封府(中国河南省開封市)の出身。
両親は不明。宦官になった理由も不明です。
若いころに宦官になり。小黄門(皇帝に仕え伝達をする役人、宦官が務める事が多い)の補佐として仕え。昇進を重ねて皇帝の側に仕える内侍になりました。
仁宗の時代
あるとき、夜の宮中に泥棒が入りました。張茂則は最初に建物の中に入って泥棒を捕まえました。その功績で御薬院の責任者に昇進しました。
至和年間(1054~1056年)。仁宗が病にかかりました。当時の宰相である富弼は慈聖光献 曹皇后と後継者のことを話し合い、慈聖光献 曹皇后 は趙宗實(後の英宗)を支持しました。張茂則はその伝達役を務めました。
嘉祐年間(1056~1063年)。仁宗が病にかかりました。宰相が皇帝の様子を尋ねに行くと、そのとき仁宗が「皇后(慈聖光献 曹皇后)と張茂則が謀反を企んでいる」と大声で言いました。それを聞いた張茂則は即座に自殺しようとしましたが、周囲の人々に止められたました。
そして宰相の文彦博は張茂則を叱りつけ「皇帝が言っているのはただの病気のうわ言に過ぎません。なぜそこまでしなければならないのですか!もしもあなたが死んでしまったら後宮はどうなるのですか?」と言いました。
張茂則は宰相から皇帝の側近くにいるように命じられ、皇帝の側を離れることは許されませんでした。
宋仁宗が病気のとき。仁宗は深夜に彼を呼び出しました。宮中の人々が宮門を閉めようとした際、張茂則は言いました。心配することはない。なぜ内外の人々に疑いを抱かせる必要があるのですか?」
その後、仁宗は彼を押班に昇進させたいと考えました。でも張茂則は外の勤務を希望。永興軍路の兵馬鈐轄(軍の指揮や、武将の監督役)に任命されました。
宋時代、宦官が軍の監督に派遣することはよくありました。
英宗の時代
朝廷に戻って内侍押班、副都知になりました。
神宗の時代
熙寧年間(1068~1077年)。司馬光と共に恩州、冀州、深州、瀛州の堤防や河を見回って修理しました。
その功績により内都知に昇進しました。
元豊2年(1079年)。 慈聖光献皇后曹氏が死去。張茂則は葬儀の担当者になりました。
上元節の夜に宮中で火災が発生。そのとき張茂則は皆を率いて火を早く鎮火させました。神宗は彼に狭衣金帯を賜りました。
王安石の馬を止める
あるとき王安石が馬に乗って宣徳門の左門から入ろうとると、役人に止められました。しかし王安石は馬を止めずに進みました。すると張茂則は大声で彼を止めさせました。すると王安石は「これは宰相の馬です、なぜ駄目なのですか!」というと。張茂則は「宰相であっても臣下です。なぜ禁中に馬で入りたいのですか。王莽(前漢で下剋上して新を建国した人物)になりたいのですか!」と叱って止めさせました。
給料の受け取りを拒否
年老いた張茂則は何度も引退を希望しましたが神宗は引退を許可しませんでした。受け取る給料が多すぎるとして張茂則は質素な生活を続けて7年間、俸給の受け取りを拒否。俸給を受け取る権利の破棄を願い出ました。
それに対して神宗は「最近の士大夫たちは贅沢に慣れて質素倹約を忘れている」と張茂則を褒め、世間の風潮を嘆きました。
哲宗の時代
1085年。哲宗 趙煦がわずか8歳で即位。
聖烈皇后(高滔滔)の幕の前で宰相たちとともに8歳の趙煦を皇帝に任命する儀式に参列。
内侍省都都知になり、宦官の最高位につきました。
1089年。美人陳氏が死去。張茂則は葬儀の責任者を任されました。陳氏は神宗の側室で、微宗の生母です。
1094年。79歳で亡くなりました。
張茂世は、質素な食生活を続け、脂っこいものを口にすることはありませんでした。人にも「たくさん食べるより、少し食べるほうがいい」と言っていました。
テレビドラマ
孤城閉 2020年、中国 演:葉祖新
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