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王拱辰 改革に反対し続けた欧陽修のライバル

宋 4.3 宋の臣下と人々

王拱辰(おう・きょうしん)は11世紀の宋の政治家。

4代仁宗から7代哲宗まで4人の皇帝に仕えました。

北宋時代の代表的な政治家・欧陽修のライバル的な人物。
歴史的に人気のある欧陽修に比べると、あまり人気のない人物です。改革を行おうとする欧陽修や范仲淹を批判して左遷に追い込んだためです。

でも欧陽修と同じように王拱辰も有能な人物だったといわれます。

また王拱辰は改革には常に反対しましたが、批判するのは議題の内容だけで、個人を攻撃したりはしません。中国や朝鮮では意見が対立すると個人攻撃する知識人や政治は多いですが。王拱辰は、議論の内容とそれを主張する人物は分けて考えることのできる分別のある人物でした。

史実の王拱辰はどんな人物だったのか紹介します。

 

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王拱辰の史実

いつの時代の人?

生年月日:1012年
没年月日:1085年

姓 :王 (おう)氏
名称:拱壽→ 拱辰(きょうしん)
字:君貺

国:宋(北宋)

父:不明
母:不明
妻:薛奎の三女、五女

子供:

日本では平安時代になります。

 

おいたち

王拱辰(1012年)に開封咸平(河南省通許)で誕生。

元の名前は拱壽。

幼い頃に父親を亡くし、母親と4人の兄弟が残されました。

王拱辰は長男として母とともに一家を支えました。王拱辰は母には素直に従い、質素倹約に努め、信頼できる人物として村人からの評判がよかったようです。

読書も好きで、夜明け前や夜中に起きて勉強していました。

仁宗の時代。

地方の試験で好成績をおさめた王拱辰は都に出て科挙を受験しました。

天聖8年(1030年)。18歳で科挙の進士で状元(首席合格)になりました。仁宗は上位3名を呼んで褒めました。ところが王拱辰はその場で状元になるのを辞退。仁宗が理由を聞くと、試験に出た問題は王拱辰がつい最近たまたま解いた問題だったので、状元になったのは偶然でしかないというのです。

仁宗は王拱辰の誠実さを高く評価。解答の内容からも状元にふさわしいとしました。

加熱する婿取り合戦

宋の時代。文官の地位は非常に高く。中華王朝史上最も文官が優遇されていた時代です。おおまかいうと文官の給料は唐朝時代の2倍、明朝時代の4倍はもらっていました。それに様々な手当がつきます。宋では科挙の最終試験は皇帝が直々に行い、合格者は皇帝の臣下となります。科挙の上位合格は出世の近道なのです。

科挙に合格するのは高位の文官になる第一歩。そのため娘をもつ高官や貴族たちは、将来有望な科挙合格者を婿にしようと、合格者が発表される日になると合格者の名前が張り出される掲示板を見に集まりました。

科挙の上位合格者でしかも若くで容姿もよいと婿にほしいという金持ちや高官が殺到。合格者の滞在する家には婿に来て欲しいという希望者がやってきた。という話がいくつも記録されています。

この熱狂ぶりは「榜下捉婿」と呼ばれました。

王拱辰は18歳で首席合格。それに目をつけたのが重臣の薛奎です。
薛奎は三女を王拱辰に四女を欧陽修と結婚させました。

王拱辰と欧陽修は妻が姉妹。彼らは義理の兄弟になりました。

王拱辰と結婚した薛奎の三女は若くして亡くなりますが、すると薛奎は五女を薛奎と結婚させました。

ドラマ「孤城閉」では二人の姉妹を娶ったことを揶揄されて誹謗中傷する歌が出回る場面がありますが。王拱辰が下心をもっているというより、娘を嫁がせた薛奎が計算高いのです。もちろん王拱辰もその方が有利だと判断したから結婚を引き受けたのでしょう。

 

契丹との交渉て手柄を立てる

慶曆元年(1041年)。契丹(遼)は宋に関南十県の返還を要求しました。

唐の滅亡後。この燕雲十六州は後晋が領有していました。後晋の皇帝 石敬瑭は後唐と倒すため契丹に援助を求め、代償に燕雲十六州を契丹に献上しました。その後、後周の皇帝 柴栄は一部の土地を奪い。後周で下剋上した趙匡胤が宋を建国してこの地域は宋朝の領土になりました。趙匡胤や趙光義は他の燕雲十六州も奪おうと考え、太宗  趙炅は自ら遠征しました。

遼国は関南十県の返還を要求。趙炅のかつての遠征は全く理にかなっていないと主張。それに対して、宋の朝廷では契丹の要求を拒否する理由が思いつかず困っていました。そこで王拱辰が仁宗に進言。関南十県を渡さないように主張。遼国に反論しました。

交渉の結果。契丹は要求を取り下げ、国境はそのまま維持されました。

仁宗は大喜び。王拱辰を褒めて御史中丞に昇進させました。

 

慶暦の党争

 

仁宗の慶暦年間になると。官職の俸給や兵糧が急激に増え、朝廷の財政を圧迫。税が支払えず土地を失った民衆や生活に困窮した農民が増え。民の反乱も起こり始めていました。遼や夏に対抗するため兵士も増加しています。

このため、仁宗は改革を求めました。

慶暦3年(1043年)。宰相の范仲淹や枢密副使の富弼は様々な改革案を提出しました。この改革を「慶歴の変法」といいます。

しかしこれらの案は役人の削減や特権階級や大地主の利益を減らすため反対が続出。慶歴の変法を進める范仲淹、富弼、欧陽修たちと反対する夏竦たちは激しく対立。范仲淹、富弼、欧陽修たちはそれによって左遷に追い込まれ改革は失敗します。この争いを「慶暦党争」といいます。

御史中丞の王拱辰と欧陽修は妻が姉妹なので義理の兄弟。二人とも戸部侍郎の薛奎の婿です。

でも2人の意見は全く違いました。欧陽修は范仲淹、富弼、韓琦たちに見方しましたが、王拱辰は改革に反対しました。

9月。經略安撫招討使の鄭正が勝宗諒が荊州で金を不正に使ったとして訴えました。その結果、勝宗諒は国県(現在の河南省霊宝市)に左遷されました。

ところが王拱辰は勝宗諒の処分が軽すぎると考え「重い処罰にすべき」と主張。朝廷が却下すると王拱辰は自分の辞職を主張して朝廷を脅しました。そのため勝宗諒はさらに岳州に左遷になりました。

仁宗は勝宗諒のやり方に反感をもち「公職を自分から辞任することは朝廷を軽んじることだ。軽々しく去ることではない」と批判しました。

 

契丹の使節を出迎えて訴えられる

至和3年(1056年)。三司使に任命され、契丹の使者を出迎えました。王拱辰は使節の長が同江で釣りをしているのを見ると宴席を設け、使節が魚を捕るたびに王拱辰は酒を注ぎ自ら琵琶を奏でて彼らを楽しませました。

契丹の使者が帰った後。御史の趙抃は王拱辰の対応を批判しました。

1063年。仁宗が死去。英宗 趙曙が即位。

治平2年(1065年)。御史中丞になりました。

 

神宗の時代

治平4年(1067年)。英宗の死後、長男の神宗 趙頊が即位しました。王拱辰は太子少保になりました。

王安石が中心になって改革を実施(王安石の新法)しました。范仲淹たちが行おうとした慶歴の変法に似ていますが。范仲淹の失敗を教訓にして大幅な人員削減は手を付けていません。でも特権階級や大地主の利権が脅かされることには違いありません。

王拱辰は今回も新法に反対しました。

1085年。哲宗 趙煦が即位しました。

「検校太師」になり。まもなく死亡しました。享年74。

 

 

 

テレビドラマ

 孤城閉 2020年、中国 演:何明翰

彼は欧陽修に代わって科挙で状元(首席合格)になりました。ドラマでは本当は欧陽修が一番なのに、劉太后が欧陽修を嫌ったため王拱辰が一番になったことにされています。

薛逵の三女と五女と結婚しました。 欧陽詢とは義理の兄弟になりました。そのため人々からは悪く言われたりもします。

 

 

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