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寇準(こう・じゅん)契丹から宋を守った強行派の重臣

宋 4.3 宋の臣下と人々

寇準(こう・じゅん)は10世紀末から11世紀初期の北宋の政治家。

2代太宗、3代真宗に仕えました。

かなり怖い人物だったらしく、寇準が段の上に立つと部下たちは震え上がったといいます。

契丹(遼)との戦いでも最も強硬に戦いを主張した人物。

蕭太后率いる契丹軍が攻めてきた時に、多くの重臣は都を捨てて逃げることを主張しましたが。寇準は徹底抗戦を主張。皇帝の遠征を実現させ和平交渉に持ち込みました。

有能な人物ですが、過激な発言が多く皇帝や周囲の人々とよく対立しました。何度か降格や左遷になっています。最終的に過激さが原因で周囲に敵を作り左遷されてしまいます。

史実の寇準(こう・じゅん)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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寇準(こう・じゅん)の史実

いつの時代の人?

生年月日:961年
没年月日:1023年10月24日
享年:62

姓 :寇(こう)氏
名称:準(じゅん)
字:平仲

国:宋(北宋)
爵位:萊國公

父:寇湘
母:趙氏
妻:許氏、宋氏

子供:4男4女

彼は2代太宗から3代真宗の時代に活躍しました。

日本では平安時代になります。

 

寇準(こう・じゅん)

寇準は961~1023年の間に生きた北宋の大臣。

太平興国5年(980年)。科挙の進士に合格。

淳化5年(994年)。参知政事になりました。

真宗の時代

即位後は工部、刑部、兵部で職を歴任。

景徳元年(1004年)。同中書門下平章事(宰相)になりました。

 

澶淵之盟

遼 聖宗と蕭太后が宋に攻めてきました。王欽若たち重臣は怖気づいて宋 真宗に開封を捨てて南に避難することを進言。でも寇準は宋 真宗が軍を率いて契丹軍を迎え撃つように進言しました。

寇準の説得で真宗は遠征を決めました。北宋軍は進軍している間に黄河の北側は契丹軍に占領されてしまいます。契丹軍と北宋軍は川を挟んで睨み合いになりました。

遼は大軍で攻めたら宋軍は逃げると思っていました。だから長期戦の備えはしていません。ところが皇帝自ら遠征して徹底抗戦したのは意外でした。

結局、戦いは膠着状態になりました。一方、宋も遼と戦い続けられるほど軍は強くありません。真宗はやる気をなくして和平を考えます。契丹も補給が追いつかなくなっていたので和睦。領土の割譲を要求しました。

真宋は領土を与えることは絶対できません。過去に漢が匈奴に玉帛(宝石などの宝物)を贈って和睦したことがあったので、その先例に従って遼に金銭を与えて和睦しようと考えました。

でも寇準は逆に遼が宋に領土を割譲すること、遼が宋に臣下の礼をとることを主張。和睦に反対。最後まで契丹との戦争を主張しました。

寇準があまりにも現実離れした主張をするので和平派の大臣たちは「寇準は戦争を利用して自分の地位を上げようとしているのだ」と皇帝に進言。こうなると寇準も和平に賛成するしかありませんでした。

宋真宗と梁聖宗・蕭太后の思惑が一致して「澶淵の盟」という和平条約が結ばれました。この条約で北宋は歳弊(毎年送る貢ぎ物)を契丹に送ることになりました。

このとき宋真宗は交渉役の曹利用に「やむを得ないなら年間100万までの銭を与えてもよい」と言いました。しかし寇準は密かに曹利用を呼んで「30万までにしろ。それ以上ならお前を斬る」と言って交渉に向かわせました。その結果、歳弊は銀10万両、絹20万疋になりました。

宋は歳弊を贈る事になってしまいましたが「澶淵の盟」のおかげで契丹との戦争がなくなり。以後、100年近く契丹とは良好な関係が続きます。首都・開封を捨てて南に逃げていたら領土の多くを失い「澶淵の盟」よりも多くを要求されたかもしれません。寇準は結果的に国を守ったのです。

 

王欽若との関係がさらに悪化

この戦いの後。主戦派の寇準と和平派の王欽若の仲は更に悪化しました。

宋真宗は和平が成立したのは寇準のおかげ。と寇準に感謝していました。ところが王欽若は、皇帝から大事にされる寇準が妬ましくて仕方ありません。

王欽若は契丹(遼)と屈辱的な盟約を結ぶことになったのは寇準のせいだと批判しました。

1006年。王欽若は宋真宗に「寇準のやり方は博打と同じです。博徒(ギャンブラー)は負けそうになると全財産を使って大勝負に出ます。寇準のやり方は危険すぎる賭けでした。」と言いました。もともと戦争はやる気はなかった宋真宗もそのとおりだなと思い。寇準は降格。刑部尚書(正三品)になってしまいました。

劉氏の皇后に反対

景徳4年(1007年)。郭皇后が病死。

真宗は側室の劉氏(劉娥ともいいます)を皇后にしようとしました。でも寇准、李迪、向敏中、王旦たち重臣は「劉氏の家柄が低いので国母になれない」と反対しました。

寇准は劉氏の皇后擁立に反対したので劉氏と寇准の仲は悪くなります。

その後。戸部尚書、兵部尚書などを歴任。その後も地方で働きました。

 

劉皇后との対立

皇太子派と劉皇后派の争い

天禧元年(1017年)。宰相の王旦が病気で辞職。

寇準は大学士に復帰。再び朝廷の政治に参加しました。

このころライバルの王欽若はもういません。代わりに力を持っていたのが丁謂です。真宗は病気で寝込んでいて代わりに朝廷で力を持っていたのが劉皇后でした。劉皇后と丁謂は

朝廷は皇太子派と劉皇后派に分かれていました。寇準は皇太子を支持していました。

真宗に「皇太子は国民から期待されているので陛下は皇位を譲ってはどうでしょうか。そのためにも高潔な大臣を選び、皇太子を支えるべきです。でも丁謂、錢惟演はよくありません」と進言。

真宗は寇準の意見を認め密かに皇太子に引き継がせようと準備を始めました。

ところがその計画は事前にばれてしまい、劉皇后、丁謂、銭惟演たちによって寇準は太子太傅に降格になってしまいます。

すると周懷政は自分も粛清されると不安になります。そして、劉皇后の政治への干渉を防ぐため真宗が太上皇帝になり皇太子を即位させ、寇準を宰相にするよう進言したのです。

それを知った楊崇勳は劉皇后に密告。

劉皇后は周懷政を処刑。寇準を萊國公に落して道州に左遷しました。

 

左遷先で死亡

その後。真宗は侍従に「長い間、寇準に会っていないが、どうしてるのだ?」と訪ねました。侍従はあえて答えませんでした。

1023年。真宗は死の間際「重要なことは寇準と李迪にしか任せられない」と言い残しました。寇準がどれほど信頼されていたかがわかります。

1023年10月24日。寇準は左遷先で死亡しました。享年63歳。

 

ドラマ

大宋宮詞 2021年、中国 演:梁冠華
歴史上は劉娥は敵ですが、ドラマでは味方の設定。

 

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