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丁謂・北宋の悪玉大臣は実務能力の高い人物だった

宋 4.3 宋の臣下と人々

丁 謂(てい い)は10世紀の宋(北宋)の政治家。

中国史では悪玉として描かれることの多い人物です。

中国史で人気の寇準と対立、陥れて左遷に追い込んだため一般には悪玉の印象が強い人物といわれます。真宗に取り入り封禅など真宗の喜ぶ宗教儀式を行ったので、儒学者からも評判が悪いです。

確かに丁謂は皇帝のご機嫌をとるのがうまい人物ですが。口先だけの政治家ではありません。財政が得意で実務能力の高い官僚でした。

しかし仁宗の時代、宰相になった丁謂は横暴になり、劉太后や仁宗から見放されて左遷されてしまいます。

史実の丁謂はどんな人物だったのか紹介します。

 

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丁謂の史実

いつの時代の人?

生年月日:966年
没年月日:1037年

姓 :丁(てい)氏
名称:謂(い)

国:宋(北宋)

父・母:不明
妻:竇氏(参知政事 竇偁の娘)

子供:四男一女

彼が活躍したのは真宋~仁宗の時代です

日本では平安時代になります。

 

おいたち

 乾徳4年(966年)に誕生。
蘇州長州(今江蘇蘇州)の出身。

父母は不明。
呉越国に仕えた丁守節の子孫だといいます。

若くして文才に富み、古文派の大家王禹偁から「韓愈・柳宗元以来の才能」と激賞された。

淳化3年(992年)。科挙の進士甲科に合格。大理寺評事、通判饒州になりました。

南部で部族対策

何度か昇進した後。咸平2年(999年)。峽州路轉運使、遷工部司員外郎になりました。

北宋の最初のころ。蜀(四川)などの南部の地域はあまり漢化が進んでなく、独自の文化を持つ部族が多くいました。

咸平3年(1000年)。益州(四川省成都)で王均(おう きん)が反乱を起こしました。朝廷は最初、周辺の部族に命令して王均を討たせようとしましたが彼らも反乱軍に加わってしまいます。

丁謂が「皇帝が殺さないと約束した」と溪族などの部族長を説得。部族長は朝貢することになり、記念の石碑が建てられました。

南部の部族の地域では穀物は豊富でしたが塩が不足していました。そこで丁謂は穀物と塩の交換を認めました。現地の人々は大喜びしました。

王均は味方を失い朝廷の派遣した討伐軍に敗れて自害しました。

溪族とは違う別の部族が宋に侵入して略奪していました。そこで丁謂は討伐のために溪族と宋の軍隊を派遣。異民族660人、漢人400人を捕らえました。

丁謂はまた「黔南の部族は馬を育てるのが上手い者が多いので毎年三館衙門が綿や絹の褒美を与え、馬を買うようにしてください」と上申しました。

南部の部族との交渉や彼らを宋に従わせるための政策を行い実績をあげました。

景德元年(1004年)2月。権三司塩鉄副使になって朝廷に入り、その後すぐに昇格しました。

契丹(梁)との戦争

景徳元年(1004年)。契丹が河北に攻めてきました。真宗は澶淵に遠征しました。丁謂は鄆州知州、齊・濮等安撫使,提挙轉運兵馬巡検事に任命されました。

契丹が攻めてくると人々は避難しました。ところが民衆が黄河を渡ろうと船着き場に殺到したら船主が高額な運賃を要求し船を出そうとしません。

それを知った丁謂は不当な要求をする船主を捕まえて処刑。他の船主は恐れおののいて船を出して民衆は避難することができました。

その後、丁謂は黄河の岸に軍隊を配置。兵に旗をもたせて大声を上げさながら戦わせました。その声は遠く離れた所にも聞こえたといいます。

やがて宋と契丹の戦争が終わりました。

景徳3年(1006年)。右諫議大夫、権三司使に昇格しました。財政の仕事を担当しました。

皇帝は丁謂の仕事ぶりに満足して表彰しました。

丁謂は「景徳会計録」を執筆。中国で最も古い会計学の本だと言われます。

 

封禅の儀式の費用捻出と準備

大中祥符元年(1008年)。真宗が「封禅」をするといい出しました。

封禅とは都から離れた二つの山に行幸して天の神、地の神に捧げる儀式を行う盛大な行事。天下の支配者を知らしめる行事です。皇帝なら誰でもできるわけではありません。封禅の儀式には多額の費用が必要です。歴代でも秦の始皇帝・漢の武帝・隋の高祖・唐の高宗・武則天・玄宗など全盛期の皇帝しか行っていません。

丁謂は真宗から「封禅に必要な資金があるか?」と聞かれて「十分できる」と答えました。

真宗は丁謂を「泰山路糧草使」に任命。準備を任されることになりました。儀式に必要な建物を建てることになりました。でも真宗の周辺には反対する者もいました。

真宗は丁謂を呼び出して詰問しました。すると丁謂は「陛下は天下の富をお持ちです。その富を使って天帝にお仕えする宮を建て、皇嗣(跡継ぎ)を祈願するために使われます。反対している者たちはそれを阻止したいのです」と答えました。

真宗は丁謂から聞いた返事を宰相の王旦に伝えました。王旦は反論できませんでした。

その後、真宗は丁謂を要職につけて封禅の儀式の準備や運営を任せました。封禅の儀式は無事終了。真宗は満足でした。

封禅は費用がかかるので朝廷内にも反対する者は多いです。でも見栄っ張りの真宗はどうしてもしたいと思っていました。

丁謂は財政の責任者として真宗を止めるべきだったでしょう。でも丁謂は真宗に気に入られるため封禅を支持して、できる限りの協力をしました。

そのため封禅反対派からは批判を受けます。

 

一石三鳥の宮殿の再建「丁謂建宮」

大中祥符年間。宮殿が火事になりました。豪華な宮殿は燃え落ちてしまいました。

真宗は工部に早く宮殿を再建するように命令。丁謂を宮殿再建の全責任者に任命しました。

しかし資材が外から届くには時間がかかり現場には焼け跡の残骸が散乱しています。難工事になるのは目に見えていました。

丁謂は慎重に再建計画を考えると、工部に命令して汴河と市内を結ぶ運河を掘らせ水を引きました。

運河ができる頃には丁謂が発注した資材が届き、運河を通って続々と市内に資材が届けられました。復旧工事は整然と行われ、工事がほぼ終えると工事中に片付けられた焼けて使い物にならない廃材を運河に捨てさせました。工事のあと運河は埋め立てられ広い道路になりました。

丁謂は一石三鳥の工事方法で再建費用を節約。真宗から称賛されました。

「丁謂建宮」は北宋の建築史の中で語り継がれる偉業となりました。

寇準との対立

北宋には政治家の南北対立がありました。黄河周辺の華北で発祥した宋は長江周辺の国を征服して領土を拡大しました。そのため征服された南部の人たちは差別を受けていました。宋には譜代と外様の対立があったのです。

北宋では太祖の遺言で「南部出身の官僚は高い地位には出世できない」はずでした。ところが真宗は丁謂や王欽若たち南部の官僚を高い地位につけたため重臣たちの間でも南北対立が起こります。

天禧3年(1019年)。王欽若が罷免され寇準が宰相に復帰しました。丁謂は参知政事(副宰相)になりました。

丁謂や王欽若は北部出身の寇準とは対立しています。

天禧4年(1020年)。真宗は病気になり政務は劉皇后が担当するようになりました。劉皇后は丁謂のアドバイスを受けながら政務を行いました。

ところが寇準、王旦、向敏中は劉皇后の政治介入と丁謂が力を持つのを嫌いました。

寇準は「丁謂、錢惟演は裏切り者で皇太子の助けにはならない」と真宗に訴えました。そこで真宗は皇太子に監国(皇帝代理)を任せ寇準に補佐させようとしました。

劉皇后はその動きを知り、先手を打って寇準の太子太伝(皇太子の世話役)を解任。その後、丁謂が「寇準は謀反に加担した」と濡れ衣をきせて降格させました。

すると皇太子 趙禎と仲のいい宦官の周懷政は自分も処罰されると恐れ。楊崇勳や楊懷吉と共謀して丁謂を殺害して皇太子 趙禎を皇帝に即位させ、真宗を太上皇にしようとしました。しかし楊崇勳はその計画を丁謂に密告。丁謂は劉皇后に報告。周懷政は死刑になりました。

さらに丁謂は寇準も処分すべきと主張。王曽が反論しようとしましたが、丁謂は「寇準に家を貸した者が発言すべきではない」と意見を退けました。王曽と寇準は家を貸すほど親しかったのです。

寇准は降格され道州司馬となって左遷されました。

真宗は皇太子に丁謂の言うことを聞くように言い聞かせ。丁謂を太子少傅も兼ねさせました。

 

仁宗の時代

宰相になる

乾興元年(1022年)。真宗 趙恒が死去。仁宗 趙禎が即位しました。

仁宗はまだ11歳。劉太后の垂簾聴政が始まります。丁謂は宰相となって政治を行いました。

丁謂は宦官の雷允恭と親しくしていました。丁謂は雷允恭に頼んで勅書の草案を見せてもらい、丁謂が読んだ後、皇帝に送りました。他の大臣よりも早く勅書の内容を知ることができるようにしました。

皇陵問題で宰相を解任される

雷允恭は丁謂の力を借りてますます横暴になっていきます。

雷允恭は真宗を葬るための山陵の建設責任者に任命されました。雷允恭は判司天監・邢中和の提案で山陵をもっと大きくしようと設計を変更しました。ところが地下水が吹き出てしまい工事が難航。完成が遅れてしまいます。丁謂もそれを知り隠しました。

天聖8年。(1030年)。仁宗が不審に思って王曽に調査を命令。雷允恭は勝手に変更した罪で処刑されました。

劉太后と仁宗は馮拯、曹利用たち臣下を集めて「丁謂は宦官と癒着している」と発表。宰相を解任され崖州 司戸参軍に左遷されました。丁家の家や財産は没収。丁謂の屋敷には賄賂や贈り物がたくさんあったといいます。丁謂の派閥の者も解任されました。

その後、丁謂は崖州で3年、雷州で5年、その後、道州に異動しました。

明道2年(1033年)。劉太后の重病で恩赦になり安州に異動。

その後、隠居して光州で漢詩を作りながら暮らしました。丁謂は道教が好きだったので漢詩にも神仙思想的な雰囲気があります。

景佑4年(1037年)。光州で死亡。享年72歳。
皇帝は銭10万、絹白匹を遺族に与えました。

 

テレビドラマ

大宋宮詞 2021年、中国 演:王鑫

 

 

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